2006年06月05日

秋田県藤里町の児童殺害事件に思う

「児童殺人(事件)」や子供たちが巻き込まれる多くの社会事件はいったい何を教えているのか。それは金と物(生産第一主義、物質万能主義、拝金主義)を第一とする社会から人民の安定と安心、社会環境の安全、そして真の人間性と尊厳ある政治と社会への転換を求めた唸りであり、叫びであり、現代社会の告発≠ナある!

人類史における大転換(革命)は、歴史科学の必然であり、それは偶然を通じて達成される。歴史の必然を信じ、一心不乱にこの道を進み、いかなる偶然にも正しく対処できる核としての資質を高めよう。ここに先進的幹部、中核的幹部、前衛的幹部の現段階の課題と任務がある!

 日本の子供たちがいたるところで「受難」にあい、大きな社会問題になっている。最近の典型的事件は秋田県藤里町における女児の不信死と男児殺人事件であった。しかも六月四日、男児殺害の容疑者として逮捕されたのは何とその女児の母親であった。この事件は小さな田舎町の同じ町営団地で、同じ小学校の児童が犠牲にあっただけに全国に衝撃を与えた。子供たちは虐待、殺人、交通事故、火災事故など現代特有の事故、事件にさらされている。
 子供たちの問題は単独の問題でなく、大人の問題であり、社会の問題であり、政治の問題であり、日本の問題である。日本社会を覆った児童をめぐる事故、事件はいったいわれわれに何を提起しているのか。ここにも歴史科学と時代認識が反映している。
 「子供は社会の鏡である」とよく言われる。子供に映った日本社会の姿はどうなっているのか。それは日本社会の告発であり、日本政治への警告であり、底辺の唸りであり、阿鼻叫喚であり、歴史への警鐘である。現代は独占と帝国主義の時代であり、それは頂点に上り詰め、腐敗・堕落し、もう歴史的に見て、古く、人類社会に通用しなくなった。最後の帝国主義、アメリカは、もうイラク戦争や、財政危機、移民問題でも、すでに手におえなくなり、帝国としての機能が瓦解しつつある。日本でも社保庁の腐敗・不正振りに象徴されるように独占資本主義、「政・官・財の癒着」はほころび、いたるところに膿が吹き出ている。社会の分野では児童殺人、奇妙な事故や事件の続発、交通戦争や自殺の激増となり、政治の分野では政治不信、無党派層の増大、政党の離合集散や無定見な連立へ、経済と生活の分野ではニートの増大、格差社会、貧富の格差、隣人愛の喪失、家庭や地域社会の崩壊、人間関係の不穏当を生み出し、これが日本社会にますますの混乱と混迷、漂流と混とんを出現させた。
 ここに現代の時代認識がある。児童殺人や児童事件、すべての社会問題、その根底には時代の転換、新しい時代、新宇宙を求めた歴史の叫びが反映している。たとえそれが政治上であれ、何であれ、あるいはそれが小さな事件であれ、大きな事件であれ、すべては歴史時代の現われである。
 先進的幹部、中核的幹部、前衛的幹部にとって大切なことは、こうした歴史が提起した課題をしっかりと受け止め、独占支配とその「政・官・財の癒着」、自民党政治を終わらせ、大衆社会、民衆社会への転換を誓い、人民による人民のための人民の国家と社会をめざし、われわれのマニフェストを力強く展開しなければならない。

最近の児童事件の特徴はその悲惨さであり、身近さであり、「まさか」が現実のものとなっていく時代である。日本社会の腐敗・堕落は、かつての「古きよき時代」を崩壊させ、ふるさと、隣人愛、地域社会、人間関係、人間性を奪い取ってしまった。

 四月九日、秋田県・町立藤里小学校四年生の畠山彩香さん(九歳)が町営朝日ヶ丘団地の自宅を出たまま行方不明となり、翌日、藤琴川の下流で水死体となって発見された。五月十七日、同じ団地に住む藤里小一年、米山豪憲君(七歳)が自宅前で行方不明となり、翌日、米代川沿いの草むらで遺体となって発見された。容疑者は豪憲君の二軒となりに住む母親であった。
 藤里町は青森県境の世界遺産・白神山地の南に広がる風光明媚な町である。粕毛川上流の素波里峡、藤琴川上流の太良峡は渓谷美に優れ、県立自然公園に指定され、山と川に抱かれた小さな田園の町は、米作、アユの産地で知られる。人口は四三〇〇人。
 大人たちは「古きよき時代」を守らんと必死に生きていた。団地は過疎化が進む中、人の流出防止の一環として九四年から九七年にかけ二八戸建てられたが、ここには比較的若い夫婦が移り住んだ。しかし、団地の内と外では温度差があり、住人交流は薄く、祭りなどの行事も別扱いであった。団地は町の「孤島」であった。それでも同じ学校に通う子供たち同士は仲もよく、共に遊んだり、あいさつする大きな声、元気な子供たちの姿は町の自慢であった。
 事件はこうした小さい、のどかな町、地域社会の中で起こったのである。彩香さんの「事故」後、「ご近所安全マップ」をPTA総会で配布、安全教室を開いたり、住民ボランティア団体が「藤里町の子どもを守る会」をつくり、集団下校への付き添いをしていた。それでも五月、豪憲君の事件は起こったのである。これでも子どもたちは守れないのか、と。町内は一変した。町に歓声は消え、暗くなり、疑心暗鬼は募り、マスコミ報道とも相まって、ますます人間関係に角が立ち、気まずいものとなっていった。小学校でも「知らない大人には気をつけるように」「外に出るときは必ず大人に付き添ってもらうように」と子供たちに教える。子供がいるある母親は「挨拶の習慣はいいことだと思っていましたが、不審者にもそうと知らずに挨拶しているのか……」と複雑な表情を浮かべている。町長は「学校の送り迎えは正しいのか。やっぱり普通じゃない」と役場の幹部たちを前に嘆く。教育委員長でお寺の住職は「子供を守りつつ、大人に対する子供の不信感をどう取り除くか、大きな課題です」と。
 藤里町の事件は子どもたちの安全と児童問題、地域社会の安全と治安にとって、日本の縮図である。昨今、日本のいたるところで藤里町のように登下校中の子どもが関係する事件が続いている。昨年十一月、広島市で下校中の小一女児が近所に住むペルー人の男に殺害された。十二月、栃木県今市市(現日光市)で小一女児が下校中に行方不明に、茨城県の山中で遺体で発見(未解決)。今年に入るや二月には滋賀県長浜市で幼稚園男児(五歳)と女児が(同)園に向う車中で同級生の母親に刺殺される。三月には川崎市のマンション十五階から下校中の小三男児が無職の男に投げ落とされた。そして四月、五月の今回の藤里町の事件である。
 子どもたちは「受難」である。子どもたちをどうしたら守れるのか。大人たちはなげき手を焼いている。最近の児童事件をよく見れば身近で、地域や、周辺で、「まさか」と思うことが起こっている。これらのものはみな連動している。長浜市の事件は保護者が交代で園児を送迎していたが、その母親が事件を引き起こした。この事件は中国出身の母親であった。広島市の事件も犯人は近くに住むペルー人であったが、文化の違い、人間関係の悩み、子育ての悩み、ねたみ、複雑な感情移入も手伝い、ついに暴発し事件となった。すべてはグローバル化した社会、生活環境、現代社会特有の産物であり、事故、事件は終わることはない。川崎市の児童マンション投げ捨て事件も事業の失敗、無職のストレスをかかえた男の犯行であった。
 五月二十日、今度は佐賀県唐津市で、小学五年生の男児がひき逃げされ、山の道端に放置され、犯人は山中に逃走、二十四日逮捕された容疑者はいみじくも「子どもをはね、これで人生終わった」と思ったというが、「交通戦争」の現代、誰もがいつ彼と同じ運命に出会うかわからない不安定で、危険、微妙な時代である。
 五月二十六日、大阪府和泉市で留守番をしていた幼児三人(七歳、四歳、一歳)が、火災に巻き込まれ死亡する悲惨で切ない事件があったが、これも幼子を時間差で留守番させてでも、両親が働かねばならない、経済的、社会的事情……。
 日本人は複雑な社会環境、心身に及ぶストレスの増大、いつコントロールを失うかわからない状態に置かれている。地元の能代署によると、藤里町で凶悪事件が起きたのは「記憶にない」という。町も村も、日本のいたるところで人間社会の崩壊にさらされている。すべては階級対立と階級闘争の反映であり、現代社会の縮図であり、悲劇的産物である。

児童殺人、児童事件、多くの社会的犯罪に「人間」を陥れた真犯人(根本原因)は、腐敗・堕落し、金と物にとりつかれ「野獣化」した独占と帝国主義である。彼らがブルジョア・ジャーナリズムを使い、盛んに主張する「人間性悪説」を暴き、人民の立場、「人間性善説」に立脚し闘争せよ。

 マルクスはどこかで「近代ブルジョアジーは人間の良心も、友情も、隣人愛も、自然も、環境も金の力で奪い取ってしまう」と言っている。日本の現実はこのとおりになっている。まさにマルクス主義は正しく、真理である。
 実り豊かな稲穂、のどかで素朴な田園風景、藤里町に代表される「古きよき時代」は、日本のいたるところから消えて久しい。その根本原因はどこにあるのか。科学的わが人民戦線政策は次のように言っている。「あらゆる客観的事実が示す本質的な問題の根本は、すべては国家と権力のあり方、国家と権力の性格と性質が問われているのであり、ここにすべてがある。つまり、独占資本とその支配権力こそが根本問題である。『ブルジョアジーは自分の姿に似せて世界をつくる』(マルクス)のである。独占資本とは、最大限の利益追求を本能とする階級的集団であり、その結果、彼らの権力とその支配国家は、生産第一主義、物質万能主義、拝金主義、自由競争という名の弱肉強食、その結果としての貧富の格差拡大、人間性そう失、人格否定、物欲主義的人間の増大、自然破壊と災害の激発、という社会になってしまった。犯罪と暴力、事件と事故、対立と抗争、連帯と協力と共同のそう失、混乱と混迷と混沌の世界、これらはすべて国家と権力、独占資本の支配が生み出した歴史上の産物である。あらゆる事件と諸現象はここに根本原因がある。そして歴史はこれを変革せんとして激動している」
 現在の国家と権力はもう時代遅れになり、転換を求めて、あがき、苦しみ、唸り声、阿鼻叫喚の叫びを上げている。社会保険庁の不正や腐敗が国会で糾弾されているが、それは氷山の一角であり、長官の交代や反省で解決されるような代物ではない。もう国家の腐敗振りは網の目のごとく浸透し、ついには一番弱い児童社会まで手をかけるようになった。もうおしまいである。自民党をぶっ壊すと叫んで台頭した「小泉改革」は危機のあらわれであった。「小泉改革」は現代の「魔性」であった。その「魔」は幼い子ども社会へ押し入り、親子、兄弟、地域社会や人間関係、すべての人間社会に迫ってきたのである。今社会では「格差社会」などとの言葉で表現されているが、実際にはもっと厳しい社会の出現、児童殺人や奇怪な犯罪と腐敗・堕落した社会が出現したのである。景気の「いざなぎ超え」が言われているが、回復したのは財閥と金融(銀行)資本だけではないか。人民と大衆、庶民は将来への不安に駆られ、危機感のなかにある。生活困難と労苦、やりくり、そして児童殺人や児童事件、すべてはその反映である。大衆の生活感、体感はまちがいない。
 日本の先輩であり、アメリカの先輩でもあるイギリスは「英国病」に苦しんだが、それは社会の犯罪と無秩序であった。アメリカもそれに続いて「米国病」に取り付かれた。それは「デカダンス」(退廃主義)、「シニシズム」(冷笑主義)、「懐疑主義」「不信」「無力」「幻滅」であった。イギリスは鉄の女と称されたサッチャーにその解決を求めた。アメリカはソ連を悪の帝国と叫び、力の政治を信奉したレーガンに託した。しかし承知のとおり「サッチャー革命」も、「レーガン旋風」も大騒ぎをしたが、結局は何も解決しなかった。腐敗堕落した社会、分裂した社会、統治能力を失った今のアメリカやイギリスをみればわかるとおりである(自ら起こしたイラク戦争でさえもうコントロールできなくなった)。日本も「不治の病」におちいり、イギリス、アメリカに続こうとしている。歴史は一時「小泉改革」にゆだねたが失敗し、むしろ腐敗・堕落の「日本病」を増大させただけであった。それが幼児殺害や少年事件に代表される各種社会事件であり、悲惨さであり、事件の身近さであり、「まさか」の事件を多発させたのである。歴史は今また社会の変革、時代の改革を求めて「変らずに生き残るためには変らねばならない」と主張する「豪腕」「破壊者」といわれる新生民主党の「小沢一郎」に向きつつある。
 「小泉改革」がそうであったように、歴史は今や手段、方法、やり方で問題が解決され、打開される時代ではない。そうではなく金と物、つまりは生産第一主義、物質万能主義、拝金主義、自由競争という名の弱肉強食の独占支配(政・官・財の癒着)を根底から破壊し、人間性、人間の尊厳、心と自然の豊かさを第一にする社会、そのための大衆社会、民衆社会、人民社会への転換、すなわち革命的変革が求められているのである。民主党の小沢一郎も手段としての共生や、政権交代や、二大政党ではなく、このような根本的変革をめざさない限り結局は、サッチャーの道であり、レーガンの運命であり、独占と財閥だけを救った第二の「小泉改革」であろう。
 彼らにはやはり不可能である。それを成し得るのは歴史科学の道を前進するわが人民戦線路線だけである。それだけにブルジョア・ジャーナリズムが最近特に主張する「人間性悪説」について明らかにしないわけにいかない。
 「人間性悪説」、つまりは「だれが悪い、彼が悪い、犯人が悪い、家庭が悪い、教育が悪い、あの宗教が悪い、あの政党が悪い、あの政治家が悪い、あの政府が悪い」という、人類の歴史上、二千年の前からくりかえして言われている同じパターンのくりごとなのである。そしてこの理念と思想は、理論的には観念論哲学であり、政治的には独占ブルジョアジーの権力思想であり、歴史的には法家派(ほうか派〜古代中国の諸子百家の一つ、国家は法にもとづく厳格な政治のみが統治における唯一の道であると説く)思想であり、独裁権力思想である。
 これにまっこうから反対し、これと正面から対決するものがわれわれの基本理論と思想認識論、つまり労働者階級と人民の思想、人民戦線思想であり、それは「人間性善説」から出発する。つまり人間とは歴史的なものであり、社会的なものであり、環境の産物である、とする。歴史が人間をつくり人間を変える。社会と環境が人間をつくり人間を変える。現代世界のいっさいの悪は、現代の歴史的情勢と社会環境、つまりは独占資本の権力支配という歴史環境とその法則、すなわち「物質万能主義と拝金主義、自由競争という名の弱肉強食、精神の荒廃と人間性のそう失」という法則が生み出す産物である。
 これがわれわれの科学的見解であり、基本的な態度である。

現代の歴史時代が要求し、その要求に応えて闘う核、先進的幹部、中核幹部、前衛分子が確固として堅持し、実践すべき政策と方針(マニフェスト)は何か。それはわれわれの人民政権政策であり、ここに人民の光があり、王道がある。

 「急がば回れ」という。それと同じように児童社会の危機、日本社会の腐敗・堕落をみた大人たちは早く何とかしたいと思う。当然である。しかし安易な道はない。「小泉改革」でもない、あるいは「改良と修正」の「豪腕・小沢流」でもない、最後を決するものはやはり原理原則であり、歴史が要求する科学的な政策と方針である。それはつぎの三項目、われわれの人民政権政策(マニフェスト)をおいて外にない。
 (一)独占資本主義と帝国主義の時代はもう古くなり、もう時代遅れになってしまった。戦争と内乱、暴力とテロ、あらゆる犯罪はこのような古い体制の矛盾の産物であり、それ自身が国家と社会の転換を求める怒りの爆発なのである。
 日本においては「政・官・財の癒着構造」を破壊して、人民による人民のための人民の政治を実現すること、ここに歴史時代があり、歴史の要求があり、歴史の進歩を促進させる新しい時代がある。
 (二)そのための運動と闘いこそ、過去の歴史上の転換期が教えているとおり、それは新しい時代を背負う階級、新興階級、現代では人民大衆が推し進める人民運動、人民闘争、人民戦線運動である。
 独占資本と帝国主義に反対するすべての人民が、それぞれの立場から、反独占・反帝国主義の旗のもとに団結し、統一した闘いと運動を進めなければならない。そのための旗じるしこそ「人民戦線綱領!」である。この旗のもとで闘う人民戦線運動は歴史の要求であり、歴史の必然である。いくらかの曲折があったとしてもこの道は必然であり、ここに歴史の王道がある。
 (三)新しい国家と社会、政治とその権力の母体は人民戦線であり、その執行機関は人民評議会である。人民大衆はそれぞれの所属する層ごとに結集し、団結し、統一し、組織をつくり、そこで共同と協力と共通の意思を確認し、政策と方針を確立する。各界、各層の共同の意思は、人民戦線運動と評議会に結集され、まとめられ、これを評議会として執行する。これが本当の民主主義であり、自覚され、意識された真の民主主義である。
 以上である。政府や権力、ブルジョア・ジャーナリズムは「安全な国」の復活をめざすとして、警察権力の向上や、監視カメラの設置、法律の改正や強化、などを盛んに主張している。これではますます泥沼に陥るだけである。行き着くところはアメリカのような住宅地を高いフェンスで囲うゲーテッド社会である。日本でも大阪府藤井寺市や茨城県日立市ではすでにブロック塀と防犯カメラ・警備員に囲われた別空間(防犯の街)が出現している。これは分裂社会のはじまりであり、非人間的な社会である。
 われわれの人民政権政策、ここにわれわれのコミュニティがある。

結び

 ▽ 人民による人民のための人民の世界とは何か。それは国家、社会、生産活動の運営目的を、最大限の利益と利潤追求のみに注ぐのではなく、すべてを人民の生活と文化水準と社会環境の安心・安全・安定のために注ぐ!
 ▽ 生産第一主義、物質万能主義、拝金主義、弱肉強食の国家と社会ではなく、人間性の豊かさと人間の尊厳と人間としての連帯と共生の国家と社会にする!
 ▽ 金と物がすべてではなく、人間の心と自然の豊かさが第一であり、姿や形だけの美しさではなく、働く人びとの生きる姿と心の美しさが第一であり、一人だけで急いで先に進むのではなく、遅くてもみんなが一緒に進む!
 ▽ 人間は生まれたときから環境の産物であった。環境が変われば人間も変わる。国家と権力が変われば国民は変わる!
 ▽ 人類が最初に、はじめてつくった社会は、原始的ではあったが、そこにはまさに共同と共生と連帯の人間的社会があった。そしていくたの回り道をしたが、その間により大きくなってもとに帰る。つまりより高度に発達した近代的コミュニティ国家と社会へ。ここから本当の人民の社会、人間の社会が生まれ、人類は総力をあげて大宇宙との闘い、新しい闘い、宇宙の開発と開拓の闘いに進軍するだろう!
                                                               (完)
posted by 日本人民戦線 at 10:59| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月13日

小沢一郎研究

<小沢一郎研究>
壊し屋・小沢一郎によって本当に旧体制は根本的に、全面的に破壊されるのであろうか?その本質と歴史的運命について!

小沢にとっての政治理念の原点「変わらずに生き残るためには変わらねばならない」(映画「山猫」のせりふ)を歴史科学が生み出した思想的メッセージとして受け取らず、単なる政治手法上の知識・手段として理解したこと、ここに小沢政治の限界がある!

 小沢一郎(と民主党)が現在日本の政界で大きな注目をうけ、大きな話題になっている。「壊し屋」小沢が果たして民主党を一人前の政党にし、本当に政権が取れるのだろうか。今までのようにまた壊してしまうのではないか。その信条たる「変わらずに生き残るためには変わらねばならない」の言葉どおり、本当に日本を変え、国家と社会を変え、そして小沢自身が人間的に変わるのであろうか、と、多くの人びとが注目している。
 多くのマスメディアも小沢評をいろいろと評論しているが、われわれはこの問題を単なる小沢の個人的評価や、民主党の人事問題としてのみ扱うのではなく、歴史的時代が生み出した政治問題、思想問題、そして歴史科学の本質的、教訓的問題として(われわれ自身の問題)として考察しなければならない。
 二〇〇六年四月、小沢一郎を代表とする新生民主党が発足した。偽メール事件で前原誠司執行部と民主党は内外からの厳しい批判、非難によって、党は崩壊寸前にさらされた結果、新生民主党は最後の切り札として小沢一郎代表を選んだのである。
 このことで注目すべきことはそのとき、政界(そして民主党内にも)支配していた、いわゆる小沢アレルギー(その豪腕、剛直、壊し屋的性格による拒否反応)を克服して、はたして小沢代表が実現するだろうか、という疑問であった。にもかかわず、民主党は圧倒的多数で小沢を代表に選んだ。このことに注目すべき本質的問題がある。つまり、小沢個人に対する個人的感情や、好きとか嫌いとかいう私情や、損とか得とかいう利害を超越した何かがここで動いたのである。この何かとはいったい何か。これが歴史であり、歴史時代であり、時代の流れである。すべては歴史科学の産物なのである。
 現代の歴史時代とは何か。現代の時代とは何か。人びとを突き動かしている時代の流れとは何かということである。それは世界的には帝国主義と独占支配の時代はもう終わりに来ており、らん熟したこの制度は時代遅れになってしまった。人類史の歴史が証明しているとおり、爆発と収れんを通じて(戦争と内乱を通じて)、旧制度はつぎつぎに崩壊していった。こうして歴史上最後の独占と帝国主義のアメリカが、イラク戦争を通じて崩壊しつつある。歴史を動かすその力こそ、民族は独立を求め、国家は自立をめざし、大衆(人民大衆)は自覚し、目覚めて自己を主張していく。この歴史の運動と戦いが時の流れである。
 日本においても同じ歴史の流れが渦巻いている。小泉改革は急速な格差社会を作り出した。拝金主義と人間道徳喪失によって社会は崩壊していく(藤原正彦教授の『国家の品格』は一七〇万部突破のベストセラーとなったのを見よ)。「政・官・財の癒着」による自民党支配、腐敗と堕落への怒りは底辺に充満して、いつかは爆発せんとしている。国際的にも、国内的にも、歴史は旧体制内での改革(改良と修正)ではなく、国家と社会の全面的で、根本的な変革(革命的転換)を求めており、そのような党とリーダーを求めて、人びとを突き動かしている。
 こうした歴史のうねり、動向、流れ、つまり現代史と歴史時代が、小沢一郎の強さ、豪腕、剛直、壊し屋を求めたのであり「帝国主義と独占的収奪支配の恐怖」に対抗する「小沢一郎の恐怖」を大衆と民主党はその手にしたのである。
 人類の歴史と政治と社会は常に変化と発展をめざして動き、運動していく。世界も、日本も、すべてはこうして到達すべきところに向って到達していく。その過程はまさに偶然を爆発させ、これを収れんさせてそうなる。小沢民主党の発足はこのような歴史過程の産物であり、ここに本質があり、ここに歴史の流れがあり、これが小沢民主党出現の時代認識である。
 そして問題は「変わらなければ生き残れない」という小沢哲学が果たして生き残れるのであろうか、ということであり、それはすべては歴史科学(哲学科学的原理)が答えるであろう。

小沢一郎とは何者か?小沢アレルギーとは何か?小沢は映画「山猫」が発したメッセージをどう受け止めたのか?その歴史上の運命と価値について!

 小沢一郎には一貫してそのアレルギーが付きまとう。その人物評がそうさせているのである。豪腕、剛直、ぶっ壊し屋、破壊者、傲慢、恐怖、嫌悪、悪る、である。それは小沢の政歴を見ればわかる。一九八九年に歴史上最年少(四七才)で政権与党自民党の幹事長に就任。一九九一年、海部内閣総辞職後の次期総理大臣を選ぶ際、小沢は宮沢喜一、渡辺美智雄、三塚博の三人の候補者を自分の個人事務所に呼びつけて面接試験≠実施、このことでその傲慢不遜が定着した。以後、一九九二年の「改革フォーラム21」の結成と自民党・経世会(竹下派)からの脱退。九三年の新生党結成。この年に八党派を束ねて反自民の細川政権を樹立。九五年には新進党結成。九八年には自由党結成。九九年には自・自・公連立政権樹立。二〇〇三年に民主党と合併。そして二〇〇六年新生民主党の代表へ。このとおりその歩いた道をたどればわかるように、壊しては作り、作っては壊していった。その間に、共に闘った同志は去り、友人は別れ、古い仲間は憎しみを抱きながら離れていった。だが小沢は「おれの考えが理解できないなら仕方がない」と平然としていた。そこには一つの信念があり、小沢哲学があった。それは、このままでは日本は駄目になる、日本は生まれ変わらねばならない。そのためには自民党が生まれ変わらねばならず、政党も、政治家も、自分自身も変わらねばならない。そのために自民党を壊し、政界を再編成し、新しい党、変わった党を作るのだ。破壊せよ、というこの意味がわからないのか!というのである。ここに小沢哲学があり、これが小沢の政治信条である。
 ところで小沢一郎のこの信条、固き信念、その哲学はどこから生まれたのであろうか。何から学びとったものなのか。このことについては彼自身がたびたび語り、昔から語り、新聞、雑誌にも取り上げられているが、それは映画「山猫」のなかに出てくるせりふ「変わらずに生き残るためには変わらねばならない」というこの言葉であった。この映画は一九世紀のイタリア統一国家樹立、立憲君主制(ブルジョア自由主義国家)成立をめざす、当時イタリアの先進的政党「青年イタリア」とその英雄・ガリバルディの戦いを記録したベストセラー小説(一九五八年発刊)を映画化した(一九六三年)ヒット作品である。
 当時イタリアは、内的には中小王国が乱立した対立と抗争と分裂の国であり、外的には大国オーストリアとフランスの干渉と支配下にあった。そうした時代に、新興ブルジョア階級は、民族的自覚と、ブルジョア自由主義思想に目覚め、先進分子は「青年イタリア」に結集して、民族独立と国家の統一、そのための新しい国家と権力としての立憲君主制をめざし戦ったのである。こうして一八六一年に統一イタリアが実現した。この歴史過程のなかで、旧体制(封建制下の貴族社会)が崩壊するとき一貴族が「青年イタリア」とその革命運動に身を投じた際に語った「変わらずに生き残るためには変わらねばならない」というのがこの一言である。小沢は言っている。日本は変わらねばならない。変わるためには自民党が変り、政党も変り、そして自分自身も変らねばならない。そのために古いものを壊し、新しいものを作り出すのだ、という信条をこの「山猫」から学んだのである。
 ここでわれわれは提起しておきたいことがある。それは小沢が「山猫」から学びとったといわれる「変わらないために変わらねばならない」というこの言葉をどう理解し、受けとめるのか、ということである。結論から言えば、小沢はこの言葉を、哲学・科学的歴史観からではなく、単なる言葉として、文章として、知識として理解し受けとめた、ということである。その結果として小沢にとってはこの言葉は、彼の個人的感覚と感情、目前の成功のための手段と方法と道具になってしまったのである。これでは歴史が生み出した価値あるこの言葉は生かされないであろう。「青年イタリア」の党と、旧体制から脱出して新しい世界を作り出す革命運動に身を投じた旧貴族の変った生き方は、小沢とは違うのである。「自分が人間として生き残るためには、旧体制を破壊し、新しい体制に変える以外にはなく、そのために自分自身の生き方を変えねばならない」という思想を表現したのがイタリア貴族の言葉であった。こういう人間は歴史の転換期には必ず出現するもので、日本では岩倉具視が有名である。徳川幕府の崩壊と明治維新によって日本は封建制からブルジョア自由主義的近代資本主義へ転換していったが、旧体制下の公家で貴族の一員であった岩倉は、旧体制から脱出して明治維新の革命闘争に参加し、その先頭に立った。その結果として、岩倉は旧体制と共に崩壊することなく、「変った新しい時代のなかで、人間として変らずに生き残ったのである。まさに「変わらずに生き残るためには変わらねばならない」のであった。故にわれわれは、言葉を言葉として、知識としてつかむのではなく、それを生み出した歴史と時代、そしてその人物と人間の生き方、その生涯から、その思想性と政治性を認識するということ、これが哲学科学思想であり、歴史科学の認識論なのである。
 もしも小沢にこの「山猫」の言葉が、知識として、単なる言葉としてではなく、哲学科学的世界観としてつかめたなら、旧体制を補完するような、単なる改革(改良、修正)ではなく、明治維新のように、国家と社会の根本的変革(革命的転換)に向って闘う現代の岩倉具視になり得たはずである。
 しかしこの前文(序論)で明らかにしたとおり、小沢アレルギーを乗り越えて小沢民主党が実現したその歴史性からみたとき、小沢の出現は日本政治史においては価値あるものであり、歴史の進歩であり、破壊と建設の時代的象徴としての意義がある。歴史はこのような偶然性を通じて必然性をめざして進む。このような歴史科学からみて、小沢とその民主党の結果がどうあれ、それは貴重な多くの経験と教訓を残すであろう。
 そして歴史はこれからも、第二、第三の小沢的(あるいは非小沢的)人物と党を作り出しつつ「さあどうするのか、はっきりせよ」と迫るであろう。「ここがロドス島だ、ここで跳べ! ここにバラがある、ここで踊れ!」(マルクス)という風に。つまり、歴史は一貫して真理に向って前進せよと呼びかける。そして歴史は最終的に時代の要求に答えられる真の前衛を作り出し、歴史を必然の世界に到達させるであろう。

現代日本の(世界的にも)歴史時代が求めているのは単なる改革(改良や修正)ではなく、国家と社会の根本的変革(大衆社会、人民の時代)への転換である。先進的で前衛的人びとは現代史に目覚めよ!

 哲学科学的世界観、歴史科学と現代の歴史時代認識から判断するとき、小沢的発想と方法論、その手法は最終的には成功しないであろう。小沢は言う。「小泉改革はでたらめだ。日本に格差社会を作りあげてしまった。一部の勝ち組だけが得をするのは本当の自由ではない。民主党がめざすべき社会は黙々と働く人、努力する人が報われる公正な社会、共存と共生の社会だ」と。これは正しい。そのとおりである。だが問題は、そのためにどうするのか、ということなのである。これについて小沢は言う。政権交代だ、二大政党制だ、官僚支配の打倒だ、民主党政権の成立だ、と。われわれが言うのはこの小沢的手法が、旧体制内での改良であり、修正であり、小手先であり、結果として旧体制の補完なのだということである。小沢哲学の源泉となった映画「山猫」の歴史は果たして小沢的改良だったのであろうか。否!改良ではなく、革命、根本的な変革であった。岩倉具視の明治維新も革命であった。「青年イタリア」も、日本の明治維新も、旧体制内の改良と修正ではなく、国家と社会の全面的な変革(革命)であった。二大政党制や、政権交代制は、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、で見るとおり、それは結局、政権のたらい回しとなり、何の変革も実現されず、みな行き詰っているではないか。なぜなのか。ここでもわれわれは現代の歴史時代を哲学・科学的にとらえねばならない。
 すべては哲学原理たる「存在が意識を決定していく」のである。つまり、あらゆる問題の根本は、存在としての、現在の国家と権力のあり方にこそ原因がある、ということである。現在の国家と権力は、帝国主義的・独占資本の権力である。独占資本の本質は生産第一主義、利益第一主義、物質万能主義、拝金主義、自由競争という名の弱肉強食主義である。その結果として、この社会は金(かね)がすべてとなり、ホリエモンも、法律無視・人命無視の建築物耐震偽装事件も、いっさいはこのような独占資本主義というこの体質が生み出したのである。小沢が非難する小泉改革や、格差社会の出現や、日本社会の混迷・混乱・不安や不安定は、帝国主義的支配権力、独占資本の支配、国家と権力の本質としての拝金主義と物質万能主義が生み出しているのであって、二大政党制とか、政権交代とか、そういう改良や修正で解決する性質のものではない。
 独占資本と帝国主義はその階級的本能、本質として、常に最大の利益、収益、拝金主義的活動を展開していく。市場原理とか、自由競争とか、公開制度とか、国際化とかいうのは、そのための手段であって、すべては弱肉強食のための方法論である。多くの経済学者が認めているとおり、サッチャーとレーガンの世界が証明しているのである。ブッシュのイラク戦争を見ればわかるとおり、常に独占と帝国主義は口実を求めては戦争によって世界支配を実現していく。帝国主義戦争の歴史が証明しているではないか。このような独占と帝国主義の世界が格差社会、貧富の差別社会を作り出しているのである。すべては国家と権力の本質が生み出しているのである。
 小沢が主張する、格差社会の是正、平等と共生の社会というものは、独占支配と帝国主義支配を破壊しないかぎり、つまり国家と権力の全面的な転換なしには絶対に実現できるものではない。小沢の言う「破壊せよ」というのは、独占資本と帝国主義を破壊せよ、という風にならなければ目的は実現できないのである。
 そして現代の歴史時代はそのような方向に向って動いているではないか。現代の世界各地で発生している戦争と内乱、暴力とテロ、各種の犯罪と事件はみな、独占支配と帝国主義の収奪に反対する歴史の蜂起である。独占と帝国主義支配はもう古くなって現代史には通用しなくなった。大自然(土地も、山も、海も)はすべて人類社会のもの、大衆のもの、人民のものである。そこからの生産物もまた万人のもの、社会のものである。それを独占と帝国主義が私利、私欲のため、拝金主義のために使うというのはもう歴史的に許されない。民族は目覚め、国家は自立し、大衆は自覚していった。こうして全世界に反乱が起こっている。
 日本においてもいたるところに反乱が起こっている。政治不信、政党不信、無党派層の増大、投票率の低下、各種の事件や事故や犯罪の発生、青少年の犯罪、社会の分裂、などはみな歴史の反乱である。こうして歴史は爆発し、収れんしていく。歴史は新しい時代を求めている。小沢の出現はこうした歴史の反乱の一部であり、その偶然性である。先進分子、前衛は、この歴史時代認識をしっかりと確認しようではないか。

現代の歴史時代が要求し、その要求に答えて闘う先進的人びと、前衛分子が確固として堅持し、実践すべき政策と方針(マニフェスト)は何か!

 宇宙と人類世界は一貫して運動しており、変化しており、発展し、前進しており、常に新しい時代に向って爆発し、収れんしていく。そして必ず到達すべきところに到達する。人類の歴史が科学として証明しているとおりである。人類社会の原初は原始社会であり、つぎは奴隷制社会、つぎは封建制社会、そして資本主義は独占資本と帝国主義の時代へと登り詰めた。そしてつぎの社会、より高度に発展した大衆社会、人民の社会、近代コミュニティ社会をめざして、あらゆる所で爆発と収れんを重ねている。歴史の転換は静かに、平穏に実現されるものではない。必ずそれは激動を伴うものである。この激動を恐れることなく、つぎへの飛躍として正面から受け止めて立ち向かっていくことこそ、先進的人びと、前衛分子の責任と任務と役割である。
 歴史が要求し、歴史が求めている新しい時代への転換期に、先進的、前衛的人びとが確固として堅持し、実践すべき政策と方針とは何か。それはつぎのとおりである。
 (一)独占資本主義と帝国主義の時代はもう古くなり、もう時代遅れになってしまった。戦争と内乱、暴力とテロ、あらゆる犯罪はこのような古い体制の矛盾の産物であり、それ自身が国家と社会の転換を求める怒りの爆発なのである。
 日本においては「政・官・財の癒着構造」を破壊して、人民による人民のための人民の政治を実現すること、ここに歴史時代があり、歴史の要求があり、歴史の進歩を促進させる新しい時代がある。
 (二)そのための運動と闘いこそ、過去の歴史上の転換期が教えているとおり、それは新しい時代を背負う階級、新興階級、現代では人民大衆が推し進める人民運動、人民闘争、人民戦線運動である。
 独占資本と帝国主義に反対するすべての人民が、それぞれの立場から、反独占・反帝国主義の旗のもとに団結し、統一した闘いと運動を進めなければならない。そのための旗じるしこそ「人民戦線綱領!」である。この旗のもとで闘う人民戦線運動は歴史の要求であり、歴史の必然である。いくらかの曲折があったとしてもこの道は必然であり、ここに歴史の王道がある。
 (三)新しい国家と社会、政治とその権力の母体は人民戦線であり、その執行機関は人民評議会である。人民大衆はそれぞれの所属する層ごとに結集し、団結し、統一し、組織をつくり、そこで共同と協力と共通の意思を確認し、政策と方針を確立する。各界、各層の共同の意思は、人民戦線運動と評議会に結集され、まとめられ、これを評議会として執行する。これが本当の民主主義であり、自覚され、意識された真の民主主義である。
 投票によって政治家や指導者や政策を選ぶというやり方は、古代ギリシャの陶片追放制度からはじまったが、最初からそれは愚民政治の手本として権力支配に利用されてきた。歴史上の事実が証明しているとおり、第一次、第二次世界大戦も、日本軍国主義のすべての戦争もみな投票による議会によって承認されたのである。歴史上最高の得票を獲得したのは、世界的にはヒトラーであり、国内的には田中角栄であった。
 ヒトラーがファシズム支配体制を完了させ、第二次世界大戦を引き起こしたあの全権委任法を採択した一九三三年十一月の総選挙は、実に九六%の投票率と九二・二%の得票率という世界史上最高のものであった。日本の総選挙史上最高の得票を得たのは一九八三年十二月総選挙で田中角栄が得た二二万票、四六・五%という史上最高のものであった。しかもそれは歴史上はじめての現職総理大臣の疑獄事件(ロッキード事件)で有罪判決を受けた直後の、いわゆるロッキード総選挙で、国内世論の八〇%は田中退陣を求めるという正論のなかでの出来事であった。こういう歴史科学の証明が示すとおり、投票というのはまさに愚民政治の見本なのである。ブッシュのイラク戦争もまた、アメリカ大統領選挙における投票で多数派支持という愚民政治の産物であった。
 事実が証明しているとおり、投票制とは大衆の幻想と錯覚と無政府的・個人的感情を支えにしているのであって、真の人間性に根ざしたものではない。したがってこの制度は権力のもつ「非情」さを隠す「情け」であり、つい立であり、飾り物であり、鎧(よろい)を隠す衣(ころも)である。
 とくに注意すべきことは、投票という行動、この自由主義的個人行動について、そのとき個々の人間を投票行動に駆り立てる契機とは何か、ということを知らねばならない。それは個人が個人としての自由行動であるから、そこには社会の中の個人ではなく、社会から隔離された、まったくの個人的事情がその契機となる。あるときは気の向くままであり、あるときは個人的感情や気分であり、現代社会で一般的なものは金(かね)であり、付和雷同である。したがってそこには政治的自覚も、思想認識も、人間性も、崇高な理念も、したがって社会的正義もない。ここに投票制のもつ愚民性がある。
 わが人民戦線と人民政策、そして人民政府と人民権力は、真の民主主義、自覚された民主主義、社会的民主主義としての評議会に断固として依拠するであろう。

結び

 ▽ 人民による人民のための人民の世界とは何か。それは国家、社会、生産活動の運営目的を、最大限の利益と利潤追求のみに注ぐのではなく、すべてを人民の生活と文化水準と社会環境の安心・安全・安定のために注ぐ!
 ▽ 生産第一主義、物質万能主義、拝金主義、弱肉強食の国家と社会ではなく、人間性の豊かさと人間の尊厳と人間としての連帯と共生の国家と社会にする!
 ▽ 金と物がすべてではなく、人間の心と自然の豊かさが第一であり、姿や形だけの美しさではなく、働く人びとの生きる姿と心の美しさが第一であり、一人だけで急いで先に進むのではなく、遅くてもみんなが一緒に進む!
 ▽ 人間は生まれたときから環境の産物であった。環境が変われば人間も変わる。国家と権力が変われば国民は変わる!
 ▽ 人類が最初に、はじめてつくった社会は、原始的ではあったが、そこにはまさに共同と共生と連帯の人間的社会があった。そしていくたの回り道をしたが、その間により大きくなってもとに帰る。つまりより高度に発達した近代的コミュニティ国家と社会へ。ここから本当の人民の社会、人間の社会が生まれ、人類は総力をあげて大宇宙との闘い、新しい闘い、宇宙の開発と開拓の闘いに進軍するだろう!
                                  (おわり)
posted by 日本人民戦線 at 19:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

小沢一郎研究

<小沢一郎研究>
壊し屋・小沢一郎によって本当に旧体制は根本的に、全面的に破壊されるのであろうか?その本質と歴史的運命について!

小沢にとっての政治理念の原点「変わらずに生き残るためには変わらねばならない」(映画「山猫」のせりふ)を歴史科学が生み出した思想的メッセージとして受け取らず、単なる政治手法上の知識・手段として理解したこと、ここに小沢政治の限界がある!

 小沢一郎(と民主党)が現在日本の政界で大きな注目をうけ、大きな話題になっている。「壊し屋」小沢が果たして民主党を一人前の政党にし、本当に政権が取れるのだろうか。今までのようにまた壊してしまうのではないか。その信条たる「変わらずに生き残るためには変わらねばならない」の言葉どおり、本当に日本を変え、国家と社会を変え、そして小沢自身が人間的に変わるのであろうか、と、多くの人びとが注目している。
 多くのマスメディアも小沢評をいろいろと評論しているが、われわれはこの問題を単なる小沢の個人的評価や、民主党の人事問題としてのみ扱うのではなく、歴史的時代が生み出した政治問題、思想問題、そして歴史科学の本質的、教訓的問題として(われわれ自身の問題)として考察しなければならない。
 二〇〇六年四月、小沢一郎を代表とする新生民主党が発足した。偽メール事件で前原誠司執行部と民主党は内外からの厳しい批判、非難によって、党は崩壊寸前にさらされた結果、新生民主党は最後の切り札として小沢一郎代表を選んだのである。
 このことで注目すべきことはそのとき、政界(そして民主党内にも)支配していた、いわゆる小沢アレルギー(その豪腕、剛直、壊し屋的性格による拒否反応)を克服して、はたして小沢代表が実現するだろうか、という疑問であった。にもかかわず、民主党は圧倒的多数で小沢を代表に選んだ。このことに注目すべき本質的問題がある。つまり、小沢個人に対する個人的感情や、好きとか嫌いとかいう私情や、損とか得とかいう利害を超越した何かがここで動いたのである。この何かとはいったい何か。これが歴史であり、歴史時代であり、時代の流れである。すべては歴史科学の産物なのである。
 現代の歴史時代とは何か。現代の時代とは何か。人びとを突き動かしている時代の流れとは何かということである。それは世界的には帝国主義と独占支配の時代はもう終わりに来ており、らん熟したこの制度は時代遅れになってしまった。人類史の歴史が証明しているとおり、爆発と収れんを通じて(戦争と内乱を通じて)、旧制度はつぎつぎに崩壊していった。こうして歴史上最後の独占と帝国主義のアメリカが、イラク戦争を通じて崩壊しつつある。歴史を動かすその力こそ、民族は独立を求め、国家は自立をめざし、大衆(人民大衆)は自覚し、目覚めて自己を主張していく。この歴史の運動と戦いが時の流れである。
 日本においても同じ歴史の流れが渦巻いている。小泉改革は急速な格差社会を作り出した。拝金主義と人間道徳喪失によって社会は崩壊していく(藤原正彦教授の『国家の品格』は一七〇万部突破のベストセラーとなったのを見よ)。「政・官・財の癒着」による自民党支配、腐敗と堕落への怒りは底辺に充満して、いつかは爆発せんとしている。国際的にも、国内的にも、歴史は旧体制内での改革(改良と修正)ではなく、国家と社会の全面的で、根本的な変革(革命的転換)を求めており、そのような党とリーダーを求めて、人びとを突き動かしている。
 こうした歴史のうねり、動向、流れ、つまり現代史と歴史時代が、小沢一郎の強さ、豪腕、剛直、壊し屋を求めたのであり「帝国主義と独占的収奪支配の恐怖」に対抗する「小沢一郎の恐怖」を大衆と民主党はその手にしたのである。
 人類の歴史と政治と社会は常に変化と発展をめざして動き、運動していく。世界も、日本も、すべてはこうして到達すべきところに向って到達していく。その過程はまさに偶然を爆発させ、これを収れんさせてそうなる。小沢民主党の発足はこのような歴史過程の産物であり、ここに本質があり、ここに歴史の流れがあり、これが小沢民主党出現の時代認識である。
 そして問題は「変わらなければ生き残れない」という小沢哲学が果たして生き残れるのであろうか、ということであり、それはすべては歴史科学(哲学科学的原理)が答えるであろう。

小沢一郎とは何者か?小沢アレルギーとは何か?小沢は映画「山猫」が発したメッセージをどう受け止めたのか?その歴史上の運命と価値について!

 小沢一郎には一貫してそのアレルギーが付きまとう。その人物評がそうさせているのである。豪腕、剛直、ぶっ壊し屋、破壊者、傲慢、恐怖、嫌悪、悪る、である。それは小沢の政歴を見ればわかる。一九八九年に歴史上最年少(四七才)で政権与党自民党の幹事長に就任。一九九一年、海部内閣総辞職後の次期総理大臣を選ぶ際、小沢は宮沢喜一、渡辺美智雄、三塚博の三人の候補者を自分の個人事務所に呼びつけて面接試験≠実施、このことでその傲慢不遜が定着した。以後、一九九二年の「改革フォーラム21」の結成と自民党・経世会(竹下派)からの脱退。九三年の新生党結成。この年に八党派を束ねて反自民の細川政権を樹立。九五年には新進党結成。九八年には自由党結成。九九年には自・自・公連立政権樹立。二〇〇三年に民主党と合併。そして二〇〇六年新生民主党の代表へ。このとおりその歩いた道をたどればわかるように、壊しては作り、作っては壊していった。その間に、共に闘った同志は去り、友人は別れ、古い仲間は憎しみを抱きながら離れていった。だが小沢は「おれの考えが理解できないなら仕方がない」と平然としていた。そこには一つの信念があり、小沢哲学があった。それは、このままでは日本は駄目になる、日本は生まれ変わらねばならない。そのためには自民党が生まれ変わらねばならず、政党も、政治家も、自分自身も変わらねばならない。そのために自民党を壊し、政界を再編成し、新しい党、変わった党を作るのだ。破壊せよ、というこの意味がわからないのか!というのである。ここに小沢哲学があり、これが小沢の政治信条である。
 ところで小沢一郎のこの信条、固き信念、その哲学はどこから生まれたのであろうか。何から学びとったものなのか。このことについては彼自身がたびたび語り、昔から語り、新聞、雑誌にも取り上げられているが、それは映画「山猫」のなかに出てくるせりふ「変わらずに生き残るためには変わらねばならない」というこの言葉であった。この映画は一九世紀のイタリア統一国家樹立、立憲君主制(ブルジョア自由主義国家)成立をめざす、当時イタリアの先進的政党「青年イタリア」とその英雄・ガリバルディの戦いを記録したベストセラー小説(一九五八年発刊)を映画化した(一九六三年)ヒット作品である。
 当時イタリアは、内的には中小王国が乱立した対立と抗争と分裂の国であり、外的には大国オーストリアとフランスの干渉と支配下にあった。そうした時代に、新興ブルジョア階級は、民族的自覚と、ブルジョア自由主義思想に目覚め、先進分子は「青年イタリア」に結集して、民族独立と国家の統一、そのための新しい国家と権力としての立憲君主制をめざし戦ったのである。こうして一八六一年に統一イタリアが実現した。この歴史過程のなかで、旧体制(封建制下の貴族社会)が崩壊するとき一貴族が「青年イタリア」とその革命運動に身を投じた際に語った「変わらずに生き残るためには変わらねばならない」というのがこの一言である。小沢は言っている。日本は変わらねばならない。変わるためには自民党が変り、政党も変り、そして自分自身も変らねばならない。そのために古いものを壊し、新しいものを作り出すのだ、という信条をこの「山猫」から学んだのである。
 ここでわれわれは提起しておきたいことがある。それは小沢が「山猫」から学びとったといわれる「変わらないために変わらねばならない」というこの言葉をどう理解し、受けとめるのか、ということである。結論から言えば、小沢はこの言葉を、哲学・科学的歴史観からではなく、単なる言葉として、文章として、知識として理解し受けとめた、ということである。その結果として小沢にとってはこの言葉は、彼の個人的感覚と感情、目前の成功のための手段と方法と道具になってしまったのである。これでは歴史が生み出した価値あるこの言葉は生かされないであろう。「青年イタリア」の党と、旧体制から脱出して新しい世界を作り出す革命運動に身を投じた旧貴族の変った生き方は、小沢とは違うのである。「自分が人間として生き残るためには、旧体制を破壊し、新しい体制に変える以外にはなく、そのために自分自身の生き方を変えねばならない」という思想を表現したのがイタリア貴族の言葉であった。こういう人間は歴史の転換期には必ず出現するもので、日本では岩倉具視が有名である。徳川幕府の崩壊と明治維新によって日本は封建制からブルジョア自由主義的近代資本主義へ転換していったが、旧体制下の公家で貴族の一員であった岩倉は、旧体制から脱出して明治維新の革命闘争に参加し、その先頭に立った。その結果として、岩倉は旧体制と共に崩壊することなく、「変った新しい時代のなかで、人間として変らずに生き残ったのである。まさに「変わらずに生き残るためには変わらねばならない」のであった。故にわれわれは、言葉を言葉として、知識としてつかむのではなく、それを生み出した歴史と時代、そしてその人物と人間の生き方、その生涯から、その思想性と政治性を認識するということ、これが哲学科学思想であり、歴史科学の認識論なのである。
 もしも小沢にこの「山猫」の言葉が、知識として、単なる言葉としてではなく、哲学科学的世界観としてつかめたなら、旧体制を補完するような、単なる改革(改良、修正)ではなく、明治維新のように、国家と社会の根本的変革(革命的転換)に向って闘う現代の岩倉具視になり得たはずである。
 しかしこの前文(序論)で明らかにしたとおり、小沢アレルギーを乗り越えて小沢民主党が実現したその歴史性からみたとき、小沢の出現は日本政治史においては価値あるものであり、歴史の進歩であり、破壊と建設の時代的象徴としての意義がある。歴史はこのような偶然性を通じて必然性をめざして進む。このような歴史科学からみて、小沢とその民主党の結果がどうあれ、それは貴重な多くの経験と教訓を残すであろう。
 そして歴史はこれからも、第二、第三の小沢的(あるいは非小沢的)人物と党を作り出しつつ「さあどうするのか、はっきりせよ」と迫るであろう。「ここがロドス島だ、ここで跳べ! ここにバラがある、ここで踊れ!」(マルクス)という風に。つまり、歴史は一貫して真理に向って前進せよと呼びかける。そして歴史は最終的に時代の要求に答えられる真の前衛を作り出し、歴史を必然の世界に到達させるであろう。

現代日本の(世界的にも)歴史時代が求めているのは単なる改革(改良や修正)ではなく、国家と社会の根本的変革(大衆社会、人民の時代)への転換である。先進的で前衛的人びとは現代史に目覚めよ!

 哲学科学的世界観、歴史科学と現代の歴史時代認識から判断するとき、小沢的発想と方法論、その手法は最終的には成功しないであろう。小沢は言う。「小泉改革はでたらめだ。日本に格差社会を作りあげてしまった。一部の勝ち組だけが得をするのは本当の自由ではない。民主党がめざすべき社会は黙々と働く人、努力する人が報われる公正な社会、共存と共生の社会だ」と。これは正しい。そのとおりである。だが問題は、そのためにどうするのか、ということなのである。これについて小沢は言う。政権交代だ、二大政党制だ、官僚支配の打倒だ、民主党政権の成立だ、と。われわれが言うのはこの小沢的手法が、旧体制内での改良であり、修正であり、小手先であり、結果として旧体制の補完なのだということである。小沢哲学の源泉となった映画「山猫」の歴史は果たして小沢的改良だったのであろうか。否!改良ではなく、革命、根本的な変革であった。岩倉具視の明治維新も革命であった。「青年イタリア」も、日本の明治維新も、旧体制内の改良と修正ではなく、国家と社会の全面的な変革(革命)であった。二大政党制や、政権交代制は、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、で見るとおり、それは結局、政権のたらい回しとなり、何の変革も実現されず、みな行き詰っているではないか。なぜなのか。ここでもわれわれは現代の歴史時代を哲学・科学的にとらえねばならない。
 すべては哲学原理たる「存在が意識を決定していく」のである。つまり、あらゆる問題の根本は、存在としての、現在の国家と権力のあり方にこそ原因がある、ということである。現在の国家と権力は、帝国主義的・独占資本の権力である。独占資本の本質は生産第一主義、利益第一主義、物質万能主義、拝金主義、自由競争という名の弱肉強食主義である。その結果として、この社会は金(かね)がすべてとなり、ホリエモンも、法律無視・人命無視の建築物耐震偽装事件も、いっさいはこのような独占資本主義というこの体質が生み出したのである。小沢が非難する小泉改革や、格差社会の出現や、日本社会の混迷・混乱・不安や不安定は、帝国主義的支配権力、独占資本の支配、国家と権力の本質としての拝金主義と物質万能主義が生み出しているのであって、二大政党制とか、政権交代とか、そういう改良や修正で解決する性質のものではない。
 独占資本と帝国主義はその階級的本能、本質として、常に最大の利益、収益、拝金主義的活動を展開していく。市場原理とか、自由競争とか、公開制度とか、国際化とかいうのは、そのための手段であって、すべては弱肉強食のための方法論である。多くの経済学者が認めているとおり、サッチャーとレーガンの世界が証明しているのである。ブッシュのイラク戦争を見ればわかるとおり、常に独占と帝国主義は口実を求めては戦争によって世界支配を実現していく。帝国主義戦争の歴史が証明しているではないか。このような独占と帝国主義の世界が格差社会、貧富の差別社会を作り出しているのである。すべては国家と権力の本質が生み出しているのである。
 小沢が主張する、格差社会の是正、平等と共生の社会というものは、独占支配と帝国主義支配を破壊しないかぎり、つまり国家と権力の全面的な転換なしには絶対に実現できるものではない。小沢の言う「破壊せよ」というのは、独占資本と帝国主義を破壊せよ、という風にならなければ目的は実現できないのである。
 そして現代の歴史時代はそのような方向に向って動いているではないか。現代の世界各地で発生している戦争と内乱、暴力とテロ、各種の犯罪と事件はみな、独占支配と帝国主義の収奪に反対する歴史の蜂起である。独占と帝国主義支配はもう古くなって現代史には通用しなくなった。大自然(土地も、山も、海も)はすべて人類社会のもの、大衆のもの、人民のものである。そこからの生産物もまた万人のもの、社会のものである。それを独占と帝国主義が私利、私欲のため、拝金主義のために使うというのはもう歴史的に許されない。民族は目覚め、国家は自立し、大衆は自覚していった。こうして全世界に反乱が起こっている。
 日本においてもいたるところに反乱が起こっている。政治不信、政党不信、無党派層の増大、投票率の低下、各種の事件や事故や犯罪の発生、青少年の犯罪、社会の分裂、などはみな歴史の反乱である。こうして歴史は爆発し、収れんしていく。歴史は新しい時代を求めている。小沢の出現はこうした歴史の反乱の一部であり、その偶然性である。先進分子、前衛は、この歴史時代認識をしっかりと確認しようではないか。

現代の歴史時代が要求し、その要求に答えて闘う先進的人びと、前衛分子が確固として堅持し、実践すべき政策と方針(マニフェスト)は何か!

 宇宙と人類世界は一貫して運動しており、変化しており、発展し、前進しており、常に新しい時代に向って爆発し、収れんしていく。そして必ず到達すべきところに到達する。人類の歴史が科学として証明しているとおりである。人類社会の原初は原始社会であり、つぎは奴隷制社会、つぎは封建制社会、そして資本主義は独占資本と帝国主義の時代へと登り詰めた。そしてつぎの社会、より高度に発展した大衆社会、人民の社会、近代コミュニティ社会をめざして、あらゆる所で爆発と収れんを重ねている。歴史の転換は静かに、平穏に実現されるものではない。必ずそれは激動を伴うものである。この激動を恐れることなく、つぎへの飛躍として正面から受け止めて立ち向かっていくことこそ、先進的人びと、前衛分子の責任と任務と役割である。
 歴史が要求し、歴史が求めている新しい時代への転換期に、先進的、前衛的人びとが確固として堅持し、実践すべき政策と方針とは何か。それはつぎのとおりである。
 (一)独占資本主義と帝国主義の時代はもう古くなり、もう時代遅れになってしまった。戦争と内乱、暴力とテロ、あらゆる犯罪はこのような古い体制の矛盾の産物であり、それ自身が国家と社会の転換を求める怒りの爆発なのである。
 日本においては「政・官・財の癒着構造」を破壊して、人民による人民のための人民の政治を実現すること、ここに歴史時代があり、歴史の要求があり、歴史の進歩を促進させる新しい時代がある。
 (二)そのための運動と闘いこそ、過去の歴史上の転換期が教えているとおり、それは新しい時代を背負う階級、新興階級、現代では人民大衆が推し進める人民運動、人民闘争、人民戦線運動である。
 独占資本と帝国主義に反対するすべての人民が、それぞれの立場から、反独占・反帝国主義の旗のもとに団結し、統一した闘いと運動を進めなければならない。そのための旗じるしこそ「人民戦線綱領!」である。この旗のもとで闘う人民戦線運動は歴史の要求であり、歴史の必然である。いくらかの曲折があったとしてもこの道は必然であり、ここに歴史の王道がある。
 (三)新しい国家と社会、政治とその権力の母体は人民戦線であり、その執行機関は人民評議会である。人民大衆はそれぞれの所属する層ごとに結集し、団結し、統一し、組織をつくり、そこで共同と協力と共通の意思を確認し、政策と方針を確立する。各界、各層の共同の意思は、人民戦線運動と評議会に結集され、まとめられ、これを評議会として執行する。これが本当の民主主義であり、自覚され、意識された真の民主主義である。
 投票によって政治家や指導者や政策を選ぶというやり方は、古代ギリシャの陶片追放制度からはじまったが、最初からそれは愚民政治の手本として権力支配に利用されてきた。歴史上の事実が証明しているとおり、第一次、第二次世界大戦も、日本軍国主義のすべての戦争もみな投票による議会によって承認されたのである。歴史上最高の得票を獲得したのは、世界的にはヒトラーであり、国内的には田中角栄であった。
 ヒトラーがファシズム支配体制を完了させ、第二次世界大戦を引き起こしたあの全権委任法を採択した一九三三年十一月の総選挙は、実に九六%の投票率と九二・二%の得票率という世界史上最高のものであった。日本の総選挙史上最高の得票を得たのは一九八三年十二月総選挙で田中角栄が得た二二万票、四六・五%という史上最高のものであった。しかもそれは歴史上はじめての現職総理大臣の疑獄事件(ロッキード事件)で有罪判決を受けた直後の、いわゆるロッキード総選挙で、国内世論の八〇%は田中退陣を求めるという正論のなかでの出来事であった。こういう歴史科学の証明が示すとおり、投票というのはまさに愚民政治の見本なのである。ブッシュのイラク戦争もまた、アメリカ大統領選挙における投票で多数派支持という愚民政治の産物であった。
 事実が証明しているとおり、投票制とは大衆の幻想と錯覚と無政府的・個人的感情を支えにしているのであって、真の人間性に根ざしたものではない。したがってこの制度は権力のもつ「非情」さを隠す「情け」であり、つい立であり、飾り物であり、鎧(よろい)を隠す衣(ころも)である。
 とくに注意すべきことは、投票という行動、この自由主義的個人行動について、そのとき個々の人間を投票行動に駆り立てる契機とは何か、ということを知らねばならない。それは個人が個人としての自由行動であるから、そこには社会の中の個人ではなく、社会から隔離された、まったくの個人的事情がその契機となる。あるときは気の向くままであり、あるときは個人的感情や気分であり、現代社会で一般的なものは金(かね)であり、付和雷同である。したがってそこには政治的自覚も、思想認識も、人間性も、崇高な理念も、したがって社会的正義もない。ここに投票制のもつ愚民性がある。
 わが人民戦線と人民政策、そして人民政府と人民権力は、真の民主主義、自覚された民主主義、社会的民主主義としての評議会に断固として依拠するであろう。

結び

 ▽ 人民による人民のための人民の世界とは何か。それは国家、社会、生産活動の運営目的を、最大限の利益と利潤追求のみに注ぐのではなく、すべてを人民の生活と文化水準と社会環境の安心・安全・安定のために注ぐ!
 ▽ 生産第一主義、物質万能主義、拝金主義、弱肉強食の国家と社会ではなく、人間性の豊かさと人間の尊厳と人間としての連帯と共生の国家と社会にする!
 ▽ 金と物がすべてではなく、人間の心と自然の豊かさが第一であり、姿や形だけの美しさではなく、働く人びとの生きる姿と心の美しさが第一であり、一人だけで急いで先に進むのではなく、遅くてもみんなが一緒に進む!
 ▽ 人間は生まれたときから環境の産物であった。環境が変われば人間も変わる。国家と権力が変われば国民は変わる!
 ▽ 人類が最初に、はじめてつくった社会は、原始的ではあったが、そこにはまさに共同と共生と連帯の人間的社会があった。そしていくたの回り道をしたが、その間により大きくなってもとに帰る。つまりより高度に発達した近代的コミュニティ国家と社会へ。ここから本当の人民の社会、人間の社会が生まれ、人類は総力をあげて大宇宙との闘い、新しい闘い、宇宙の開発と開拓の闘いに進軍するだろう!
                                  (おわり)
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2006年04月20日

竹島問題について

 今日のほとんどの新聞は一面に竹島問題を取り上げている。日本が調査船の派遣を予定していることに韓国政府が強く反発し、場合によっては拿捕すると声明した。韓国はすでに竹島を実効支配しており、日本の調査は国際法に違反しており不当である、との態度である。日本は竹島は日本領であり排他的経済水域の調査は当然である、との姿勢である。
 しかし歴史的経過を見ればわかるとおり、竹島問題は何も解決せず、すべて棚上げにされてきたのである。韓国は話し合いでは解決しないゆえに一方的に「支配」し、灯台やレーダーを設置、武装警備隊を常駐させたのである。つまり領土問題は竹島だけでなく、どこでも、いつでも、常に力と戦争が解決しているのである。ブルジョアジーや国家は領土は一寸たりとも譲歩しないのである。しかもそこに資源があり、利益がある限り、資本の法則が貫徹されるのである。最近ではイギリスのフォークランド紛争とその武力の講師をみればわかるとおりである。誠に貪欲である。
 ならば、どうすればよいのか。日本が本気で竹島は自国領だ、というのであれば自衛隊を送り、韓国と戦争をし、竹島を奪い取ってくる以外にないのだ。今の日本政府の態度は弱腰であり、6月21日からドイツで開かれる海底山脈や海溝の名称が議論される国際会議への牽制程度のものであり、本気ではない。韓国が実効支配しているように日本も本気なら戦って韓国を追い出し実行支配せよ、と言いたい。
 しかし、本来海洋や公海、資源や漁場は万人のものであり、人民のものであり、社会のものである。それを支配し、「私」しているものは帝国主義であり、国家である。ならば国家と権力がある限り、領土問題は根本的には解決しない。大衆と万人の国家、人民社会に転換する以外にないのだ。
 われわれは公海を人民の手に!漁場を漁民の手に!海洋資源を人民の手に! そして竹島を日本と韓国の民族と人民のものに!両国の平和のシンボルに!
 現在、日本や世界で起こっているすべての問題は、歴史の転換、国家の転換をもとめて激動している産物である。
 すべてを人民戦線へ。
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2006年04月11日

2006年革命英雄記念祭と梅原マサエさんの入魂式盛大に開催!

 桜咲く四月九日、英雄記念碑の建つ八王子・東京霊園で「二〇〇六年革命英雄記念祭と梅原マサエさんの入魂式」が、日本共産党(行動派)主催で、厳粛かつ盛大に開催された。この日の式典には行動派党の代表、人民戦線の代表、ご遺族の代表が出席した。
 一部の記念式典と入魂式の司会進行は行動派党の森久書記長が担当し、開会にあたり「碑誌」が朗読された。徳田球一をはじめとする入魂者名簿(下段に紹介)の朗読は佐藤正中央委員が行った。
 「梅原マサエさんの入魂式」は平岡恵子政治局員の手によって執り行なわれた。故人の経歴(全文紹介)が発表され、故人の、その生き様こそ日本の母親がおわされた共通した人生の典型であったとの報告が力強く述べられた。そして、ご遺骨が厳かに記念碑に祭られた後、梅原秀臣氏がご遺族を代表して挨拶(全文紹介)した。
 北野勇中央委員の先導で「英雄記念碑への誓いの言葉」(全文紹介)が唱和された。その哲学科学的世界観をかみ締めた。
 最後に英雄記念碑の建立者である大武礼一郎議長が挨拶を行い、議長はこの日、記念碑に祭られた故人をしのび、未来に向かって生きる、その生き様を称え、革命英雄の共通した人生観を強調した。
 記念碑に黙祷が捧げられ、全員が一人ひとり記念碑に献花を奉納した。
 第二部の懇親会は、楽しく、かつ人間性あふれる交流会であった
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2006年04月04日

イラク戦争を「哲学科学世界観」から見つめよ。

人類史の運動における現代の到達点は最高度に発展した生産力が、その生産関係として独占と帝国主義に達した。そして歴史科学の法則通りに、帝国主義は帝国主義戦争を通じて崩壊している。それがアメリカ帝国主義とイラク戦争の運命である。その先にあるのは大衆(人民)の時代である!

現代のイラク戦争を「哲学科学的世界観」からみつめよう!
〜イラク戦争開戦三周年記念に寄せて〜

 われわれはすばらしい歴史時代に生きている。宇宙は膨張と収縮、超新星爆発によって古い星は崩壊し、新しい星が誕生する無限の世界である。人類社会はその前史(独占と帝国主義時代)を終えつつあり、後史(大衆社会と万人の世界)が新しい風となっている。その最大の嵐がイラク戦争であり、流れる赤い血潮であり、暴動であり、内戦であり、やむことなき銃声である。宇宙では爆発によって新しい星が出現し輝いているが人類社会の爆発は歴史的にそれは戦争であった。
 ブッシュ米大統領はイラク戦争三周年記念の記者会見で「イラク戦争はイラクや中東民主化のはじまり」だとか、「勝利を導く戦略実施中」だとか、言っているが、それはまったくの偽りであり、うそであり(大量破壊兵器の存在もうそであったが)、すべては帝国主義戦争であった。アメリカはすでにイラク戦争のコントロールを失い、出口戦略もなく、漂流し、混迷し、敗北と崩壊過程に入った。これらはアメリカとイラクの二国間問題ではなく現代世界の流れであり、歴史時代であり、時代認識である。
 現代は資本主義の到達点、独占と帝国主義の時代であり、すべては民族に独立を求め、国家に自立を促し、大衆には自覚を与え、地球上最後の帝国・アメリカは、歴代の帝国と同じ道、すなわち戦争によって崩壊する歴史過程(時代)にある。イラク戦争それは転換期における歴史時代の産物であり、爆発と収れんであり、暴力とテロであり、内戦であり、それはまた人類史を動かす梃子であり、新しい暴力であり、助産婦である。
 すべては「哲学科学的世界観」と歴史科学(法則)の支配下にある。堺屋太一氏(作家、元経済企画庁長官)が「文芸春秋」三月号に掲載された「米国とモンゴル帝国どっちが強い」との文書のなかで「モンゴル帝国は崩壊したが、アメリカは踏ん張ってほしい」との願望を吐露しているが、歴史科学はアメリカ帝国主義だけに例外をあたえない。すべてに歴史科学の法則が貫徹されているのである。堺屋氏をはじめとする多くの文化知識人が同じような論調をしている。はっきり言えば哲学科学的世界観が文化知識人の中に確立していないことである。つまり哲学と科学の統一した世界観、この知的水準が低いことである。
 われわれは以上の歴史時代、時代認識をしっかり認識しつつ、改めて「哲学科学的世界観」に立ち返り、イラク戦争を見つめるよう多くの人々に呼びかける。

イラク戦争は「内戦」に発展しており、「イラクの民主化」も「中東の民主化」も「世界はテロから解放され平和になる」というアメリカの言い分は完全に崩壊した。投票や選挙などというものは幻想であり、無力であった。すべては戦場の力関係が決定する。

 「米国はパンドラの箱を開けてしまった」(三月八日付米紙ロサンゼルス・タイムズ)という米国のハリルザド駐イラク大使の言葉や、アラウィ前首相の「イラクは内戦状態にある」(三月十九日、英BBCとの会見)との発言は、現代のイラク戦争の状況をよく表している。
 ブッシュ大統領は、三月二十一日、三周年記念の記者会見と関連して、イラク駐留米軍の完全撤退は「将来の大統領とイラク政府が決定する」と語った。これは自らの力(任期中)ではもういかんともしがたいことを白状(責任が取れない)したものであり、イラク戦争の失敗と敗北を事実上宣言するに等しいものである。
 当初、アメリカは選挙によって新しいイラクの政治プロセスは完了し、本格的イラク政府が誕生し、政治も経済も社会も治安も、すべてイラク人によるイラク政府が担う、と主張していた。そしてこの一年半近く、一連の政治(選挙)過程を実行したのである。
 暫定国民議会選挙(〇五年一月三十日)、移行政府発足(同年四月二十八日)、憲法草案決定(同年四月二十八日)、憲法承認を問う国民投票(同年十月十五日)、フセイン元大統領の初公判(同年十月十九日)、新憲法下での連邦議会選挙(同年十二月十五日)が相次いで実施された。そしてそれにもとづくイラク連邦議会が三ヶ月後の今年、三月十六日、やっと召集されたが、何一つ決まらず、むしろ民族対立、宗派対立、内戦状態をいっそうさらけ出すだけであった。
 暫定議長に就任した最長老のパチャーチ元外相が、二月下旬のイスラム教シーア派聖廟爆破を転機に爆発したシーア派、スンニ派の衝突に触れ、「内戦の回避」を訴えねばならないほどであった。まさに「パンドラの箱は開いてしまった」のである。
 事実、イラクは内戦状態である。やがて全面的な内戦へと発展せざるを得ないであろう。クルド人はすでに「クルド自治区はイラクビジネスの玄関口」と勝手に称し北部のキルクーク油田や新たな油田開発を軸に自立を開始した。シーア派もイランとの関係を強化し、南部の豊かな油田を武器にこれまた自治区を立ち上げんとしている。スンニ派はシーア派を「イランのスパイ」とののしり、憎悪、対立を深めている。国家は分裂し、解体されており、安定した本格政権の樹立などは幻想である。
 これがイラクの現実である。イラク戦争開戦から三年、「新しいイラクの政治プロセスは曲がりなりにも前進している」などというのはまったくの偽りであり、幻想であり、観念論者のたわごとに過ぎない。
 いったい選挙とは何か。イラク戦争の過程や現実は投票や選挙の本質をものの見事に証明した。すべては力であり、武力であり、強権であり、買収が決定するのである。投票ですべてを決めるというやり方(愚民政治)は古代ギリシャのアテネに出現したが、ブルジョアジーはこの方法を長い間権力支配に利用、運用してきた。しかし選挙や投票(政治プロセス)はイラク戦争では通用せず、まったくの無力であった。選挙はむしろ対立と抗争と憎悪と暴力と分裂と内戦を出現させた。「すべては戦場の力関係が決定する」との法則どおり、選挙の結果や「多数決」にかかわりなく、イラクは内戦であり、帝国の漂流であり、米軍の無力化であり、帝国・アメリカが敗北と崩壊過程に入ったことを証明した。イラク戦争の転換は選挙や投票ではなく、力であり、爆発であり、帝国崩壊による新時代以外にありえない。ここにイラク戦争の混迷と漂流があり、選挙の本質があり、イラク戦争の現実がある。また、アメリカの意図に反し、イランや中東ではイスラム原理主義が台頭し、南米では反米政権が、そしてアジアや欧州、世界各地で暴動が発生している。
 アメリカはイラク戦争で泥沼に陥り、世界では孤立しつつある。米軍のイラクからの撤退はアメリカの敗北を天下にさらすものであり、撤退しなければブッシュ政権が持たない。こういう状況でのブッシュ大統領の長期駐留宣言であった。まさに「前門の虎、後門の狼」である。ブッシュ政権の支持率は三十%台にまで落ち込み、七十%近くがブッシュのイラク戦争に反対を表明、厭戦気分が広がり、共和党の内部から十一月の中間選挙は戦えないとの声さえ起こっている。また、英国のBBCがイラク戦争三周年を記念しておこなった世界の世論調査では、イラク戦争以後、世界では「テロの脅威が六割も増大した」というのである。さらに注目すべきことは同じころ米CBSの世論調査によるとイラク戦争を「間違い」と答えたのは与党・共和党員の二十五%に対し野党・民主党員が七十六%と鋭い対比を見せたことである。かつてのベトナム戦争や朝鮮戦争をみてもわかるとおり両党の戦争に対する評価は大差がなかった。これは何を意味するのか。それは米国政治の激変であり、ブッシュ政権の危機であり、まさに帝国崩壊の危機を内包している。イラクが本格的な内戦に突入し、共和党員が反イラク戦争へ雪崩れ現象を起こすとき、アメリカの従来の価値観が破壊され、つまりは帝国の機能を失い、帝国は急激に崩壊へと向かわざるを得ないということである。

歴代の帝国が崩壊した道とは何か。その科学的歴史観から来る運命とは何か。やはり例外なく帝国主義は帝国主義戦争を通じて崩壊している。「哲学科学的世界観」の立場からイラク戦争と世界、そしてアメリカ崩壊へのドラマを見つめよ。

 一九世紀に人類世界は帝国主義の時代に到達した。帝国主義とは最高度の生産力を保持した独占資本主義であり、それは必然的に他民族と他国に対する侵略と支配と収奪とそのための帝国主義戦争である。一九一四年―一八年の第一次世界大戦(死傷者三千万人)。一九三九年九月―一九四五年八月までの第二次世界大戦(死傷者六千万人)。第二次世界大戦以後の世界各地における戦争、内乱、国際紛争での戦死者は二千二百万人を越した。帝国主義は二億人以上を殺した最大の殺人鬼である。
 あらゆる客観的事実が示す本質的な問題の根本は、すべては国家と権力のあり方、国家と権力の性格と性質が問われているのであり、ここにすべてがある。つまり、独占資本とその支配権力こそが根本問題である。「ブルジョアジーは自分の姿に似せて世界をつくる」(マルクス)のである。独占資本とは、最大限の利益追求を本能とする階級的集団であり、その結果、彼らの権力とその支配国家は、生産第一主義、物質万能主義、拝金主義、自由競争という名の弱肉強食、その結果としての貧富の格差拡大、人間性そう失、人格否定、物欲主義的人間の増大、自然破壊と災害の激発、という社会になってしまった。犯罪と暴力、事件と事故、対立と抗争、連帯と協力と共同のそう失、混乱と混迷と混沌の世界、これらはすべて国家と権力、独占資本の支配が生み出した歴史上の産物である。あらゆる事件と諸現象はここに根本原因がある。そして歴史はこれを変革せんとして激動している。
 現代の世界各地に発生している各種の戦乱、内乱、内戦、紛争、テロ、蜂起、対立、抗争などは、根本的には、独占と帝国主義の支配と収奪に反対する歴史の爆発である。生産力の発展に照応した生産関係の変更を求める歴史の転換への爆発である。民族は自立を求め、国家は独立をめざし、大衆は自覚し、人民は立ち上がり、人間性と人間の尊厳を求めて蜂起している。大自然(土地も、山も、海も、宇宙の大自然)はすべて人類のもの、社会のもの、大衆のもの、人民のものである。そこから産出される生産物もまた万人のもの、人間のもの、社会のもの、人民のものである。これを巨大独占資本が支配し、生産力と生産物を私利、私欲のため、拝金主義と利益追求のために利用するなどということは、もうすでに時代遅れになってしまった。貧富の格差拡大、先進国と後進国の格差拡大、差別の拡大、これを正せと歴史は要求して爆発している。その表現が戦争であり、内乱であり、内戦であり、テロであり、各種の紛争、各種の犯罪である。こうした矛盾の爆発を通じて独占と帝国主義は崩壊し、歴史によって否定されていく。ローマのように、古代王朝のように、封建領主のように、第一次世界大戦で崩壊したロシア帝国や、ドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国や、オスマン・トルコ帝国のように。そして第二次世界大戦で崩壊した日本とドイツとイタリアの帝国主義ファシズムのように。そして帝国主義支配が崩壊したイギリス、フランス。こうして最後に残った大帝国のアメリカもイラク戦争を通じて崩壊に向っている。歴史の法則は曲げられない。
 ブルジョア的拝金主義は人間を金(カネ)の奴隷にしてしまった。独占と帝国主義はすでに二十世紀に二億人以上を殺してしまった。本質的な問題はその殺し方である。そこには騎士道も武士道もいっきょにかなぐり捨てた、むき出しの非人道的虐殺、大量破壊、無差別殺人、非戦闘員に対する皆殺し(広島、長崎の原爆をみよ)、そのための大量破壊兵器、地獄を現実にした戦りつ的化学兵器(ベトナム、アフガン、中東をみよ)、こうしてブルジョアジーと独占と帝国主義は戦争の世界を人間の屠殺場にしてしまった。このような悪人、殺人者はみな歴史時代の変化が生み出したのである。昔はこんな事件はなかったのに益々奇怪な事件が起きるのは、奇怪な世の中になったからである。常に問題の根元、その土台、その存在に向って突き進むことこそ、歴史の必然性と歴史の先進性に立脚した気高い思想である。言論人は偶然性的、一時的、思いつきと個人的感情を捨てて大儀に立て!

帝国主義戦争とその結果が人類史に残した本質と教訓は何であったか。われわれは大宇宙を支配する科学法則、社会科学と歴史科学の法則のもとにこの問題をしっかりと確認しなければならない。それはつぎの通りである

 (一)歴史科学の示すとおり、生産力の発展が生産関係を規定するという法則通りに、人類史はその前史の到達点たる帝国主義の段階に到達した。それは資本主義の最高にして、最後の、最もらん熟し、そして歴史上最大の、最悪の、凶暴な暴力支配である。それ故にまさに最後の帝国(アメリカ帝国主義)が崩壊せんとする、そのような帝国と帝国主義時代である!
 (二)生産力の発展は必ず生産関係を転換させるという歴史科学の法則は、この論文で科学的に証明されている通り必然的なものである。つまり、大自然から生まれ、大自然と共に前進、発展してきた人類の生産力と生産物を、私利・私欲・富と蓄財として一部の巨大独占支配にゆだねるのではなく、万人のため、大衆のため、人民のため、社会のものにせよ。時代と歴史はこのように求め、激動しているのである。ここに歴史の要求があり、ここに歴史の必然がある!
 (三)だが歴史転換の過去が教えている通り、旧体制、旧勢力というものはけっして静かに消え去るものではない。帝国主義は自然消滅しない。歴史上の各時代の転換が爆発と収れんした通り、帝国主義もまた戦争と内乱という爆発を通じて収れんされていく。そのとき、爆発を歴史の要求通りに、正しく収れんさせるための核(先進分子、前衛)がここで決定的役割を果す。科学思想と理論上の原則に忠実な先進分子、前衛が絶対に必要であり、歴史はこのことを決定づけている!
 (四)帝国主義の崩壊、歴史の転換、新しい時代への前進と発展は歴史科学の示す通り、これは必然である。だがこの必然は必ず偶然を通じてのみ実現される。偶然とは予測しないことであり、突発的なことであり、曲がりくねったことである。故に歴史転換のカギを握る核たる者、先進分子、前衛は、如何なる場合、如何なる局面にあたっても、常に原理原則(科学思想と理論上の原則)にもとづく決断と勇気を忘れてはならない。ここに歴史転換のかなめがあり、カギがある!
 (五)科学法則、社会科学、歴史科学の法則は、大宇宙を支配する無限の法則のもとで、永遠に発展し、前進していく。自然も、人類社会も、国家と社会も、人間も、ただ一ヶ所に止まっているのではなく、常に変化し、転換していく。帝国主義の後には、万人の時代、大衆社会、人民の時代が到来するだろう。そして人類はつぎの時代、つまり、地球をあげて、大宇宙への壮大な闘いへと前進するだろう。帝国主義と不屈の戦いを進めた先進的で前衛的人びとはその偉大な歴史のなかで永遠に不滅であり、歴史と共に永遠に記録されるであろう!

結び

 ▽ 人民による人民のための人民の世界とは何か。それは国家、社会、生産活動の運営目的を、最大限の利益と利潤追求のみに注ぐのではなく、すべてを人民の生活と文化水準と社会環境の安心・安全・安定のために注ぐ!
 ▽ 生産第一主義、物質万能主義、拝金主義、弱肉強食の国家と社会ではなく、人間性の豊かさと人間の尊厳と人間としての連帯と共生の国家と社会にする!
 ▽ 金と物がすべてではなく、人間の心と自然の豊かさが第一であり、姿や形だけの美しさではなく、働く人びとの生きる姿と心の美しさが第一であり、一人だけで急いで先に進むのではなく、遅くてもみんなが一緒に進む!
 ▽ 人間は生まれたときから環境の産物であった。環境が変われば人間も変わる。国家と権力が変われば国民は変わる!
 ▽ 人類が最初に、はじめてつくった社会は、原始的ではあったが、そこにはまさに共同と共生と連帯の人間的社会があった。そしていくたの回り道をしたが、その間により大きくなってもとに帰る。つまりより高度に発達した近代的コミュニティ国家と社会へ。ここから本当の人民の社会、人間の社会が生まれ、人類は総力をあげて大宇宙との闘い、新しい闘い、宇宙の開発と開拓の闘いに進軍するだろう!
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2006年04月02日

民主党の混迷は時代認識の産物

前原の若さだとか、偽メールを安易に信じたとか、そんな個人的な、そんな低次元の問題ではない。現代社会が混迷し、小泉改革も失敗し、自民党も混迷する現代の時代の混迷と同じものである。つまりは保守政治の限界である。
時代をしっかりみつめ、それに応えるもののみが、現代の混迷を突破して、最後の勝利者となるのである。
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2006年03月25日

米軍再編=移転費負担について

3月25日付朝日新聞に載った小川和久さんの論説を支持します。アメリカの世界支配は日本抜きにありえない。日本列島にはハワイからアフリカ最南端の喜望峰まで地球の半分の範囲で行動する米軍を支える能力がおかれている。にもかかわらず日本政府の弱腰は、売国奴に等しいものである。決裂覚悟で日米交渉に当たれ、大衆には税金の増税など反人民的なあことは許せない。
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2006年03月15日

「人民戦線の旗のもとに」3月号

アメリカ帝国主義(独占資本)の全世界制覇をめざす「市場原理主義」の本質を暴露した『文芸春秋』(三月号)掲載、藤原正彦教授(お茶の水女子大)の論文に注目しよう!


わが人民戦線綱領が早くから提起してきた同じ本質論を、異なった立場から同じ方向に向って論ずる、という人民戦線的あり方の見本としてここに紹介する!


 数学者・お茶の水女子大の藤原正彦教授は『文芸春秋』(三月号)に『愚かなり、市場原理信奉者』と題する論文を発表している。その論文で、「一割の勝ち組みと九割の負け組み。これでいいのか」と厳しくかつ鮮やかに市場原理主義を批判している。藤原教授の主張は正しい。その核心的内容は、次の点にある。
 『バブル崩壊以来、市場原理主義が恐ろしい勢いで日本を席巻している。市場原理さえ浸透すれば経済は回復する、との神話がわが国を覆っている。催眠にかかったごとく、その線に沿った改革の嵐が吹きまくっている。規制緩和、ビッグバンなどは言うまでもなく市場原理を働かせるためのものである。「官から民へ」「小さな政府」「中央から地方へ」なども、中央の規制を除き、市場原理を保障するためのものである。市場原理と自由競争は一体だから、その結果、わが国は激しい競争社会に突入した。自由に競争して、勝った者だけが情け容赦なくすべてを取る、という方式である。公平に戦った結果だからよいではないかという理屈である。弱肉強食、食うか食われるかの世界である。けだものの世界である』と。
 藤原教授の言っていることは誠に正しく、そのとおりである。
 ここに小泉政権が推し進める市場原理主義、自由競争、規制緩和の本質がある。藤原教授が『文芸春秋』で強調しているのは、小泉政権の市場原理主義はアメリカの道であり、破滅の道であり、人間社会ではない、けだものの世界である、と断言している。アメリカも日本も帝国主義と独占支配の時代に到達し、完全に腐敗堕落してしまった。市場原理主義に見られる現実は国家と社会の転換抜きにもはや何も解決しないことの証であり、時代は新しい世界に到達しつつあることを証明した。
 『人類はいま二十世紀をしめくくり、二十一世紀に移行した。二十世紀は人類史における巨大な転換点であった。科学的歴史観の示すとおり、転換とは爆発であり、収れんであり、破壊と建設であった。そして偉大な転換と収れんと建設の二十一世紀のために二十世紀は爆発し、破壊され、血を流したのである。確かにこの時代は生産力は向上し、物質は豊かになり、科学は進歩した。消費ブームは頂点に達した。しかしその反対に、貧富の格差拡大と人間性のそう失と戦争と暴力による大量殺人をひきおこした。それは生産目的が人民のため、人間自身のためではなく、独占支配のための利潤追求のみだったからである。人間が人間らしく生活し生きる決定的なものはその心であり、尊厳であり、人間性である。人間が人間であるための原点たるその心と尊厳と人間性を復興させるため、人類史はいまその土台たる物質生活のあり方、生産力と生産関係のあり方、国家のあり方が問われている。二十世紀は自らを総括して二十一世紀に解答しなければならない。それが現代という歴史時代なのである』(人民戦線綱領)。

藤原教授は何を言っているのか。その正しい主張をよく聞いてみよう。

 藤原教授は『文芸春秋』三月号に掲載した論文と同じことを二月八日付けの産経新聞にも書いている。産経新聞に掲載された文章の方がより解りやすいので、ここでは産経新聞に掲載された文書の重点を紹介したい。藤原教授は次のように言う。
 『昨年出版した「国家の品格」(新潮新書)の中で私はこう書きました。
 「経済改革の柱となった市場原理主義をはじめ、留まるところを知らないアメリカ化は、経済を遥かに超えて、社会、文化、国民性にまで深い影響を与えてしまったのです。金銭史上主義に取り憑かれた日本人は、マネーゲームとしての、財力にまかせた法律違反すれすれのメディア買収を、卑怯とも、下品とも思わなくなってしまったのです」
 実名こそ挙げませんでしたが、ライブドアの堀江氏の言動を念頭において書いたものです。
 ▼安定失う社会
 なぜこんなことになってしまったのか。市場原理主義です。
 一例を挙げましょう。「会社は株主のもの」という論理に立てば、経営者は短期で成果を出さない限り更迭されてしまいます。そこで登場したのが、これまでの日本の経営者が手をつけようとしなかったリストラと成果主義です。成果主義は、優秀な人材にとっては昇給のチャンスとなりますが、普通の人材には確実に収入減となるシステムです。さらに正社員の雇用を抑え、人件費が半分ですむ非正社員の雇用を増やす。こうして従業員の忠誠心と対になった終身雇用という、世界で最も優れた制度が捨てられつつあります。
 一所懸命勉強し、それなりの学校を出ても新規採用は少ないし、大企業に就職しても、安定も得られず、いつ解雇されるか分からない。それなら、はじめからコツコツ勉強したり地味な仕事を続けるより、IT寵児でも狙った方がよいという風潮がはびこることになります。堀江氏が若い人々の憬れとなったのは、むべなるかなです。
 また、いま少子化が大きな問題になっていますが、その根本的な原因は、市場原理主義によって社会が安定を失ったところにあります。国民は感じているのです。こんな社会に子供を送り出しても幸せになれるとは思えない、と。さらに、子育てには女性にも男性にも膨大な労力が求められます。それが成果主義の中ではハンディとなってしまう。子供を持つことに積極的になれないのは当然です。
 ▼勝者と敗者
 市場原理主義は、自由競争を妨げるとしてあらゆる規制の撤廃を求めます。しかし、規制は弱者を守るためには絶対に必要です。ボクシングで規制をはずし、どこを殴ってもよいことにしたら、判定勝ちという曖昧な結果はなくなり、すべてKOで決着がつくことになるでしょう。
 つまり、市場原理主義は勝ちでも負けでもない普通の人々の存在を許さず、国民を少数の勝者と大勢の敗者に二極分化してしまうのです。
こうした社会では、国民は「勝ち馬」に乗ることばかりを考えるようになります。国民総風見鶏ですね。
 ▼貧富の差拡大
 市場原理主義に蹂躙された社会がどうなってしまうのか。それはアメリカを見れば明らかです。経営者の平均年収が十三億円、一般労働者は三百万円。そして、乳幼児死亡率はあの貧しいキューバよりも高いのです。多くの人が医療保険に加入できないためです。生き馬の目を抜くような社会だからこそ、弁護士と精神カウンセラーがわが国の何十倍もいて繁盛するのです。
 現在、OECD(経済協力開発機構)加盟三十カ国の中で貧富の格差の最も大きな国はメキシコ、次いでアメリカです。日本は何番目だと思いますか。かつて国民総中流といわれた国が、あっという間に世界で五番目に貧富の格差の大きな国になってしまったのです。
 日本は、世界に誇る国柄をかなぐり捨てて、アメリカのような野卑な社会を目指してひた走っているのです。
 国民はおぼろげながらこんな社会に不安をもっており、それが閉塞感となっています。なのに、この閉塞感の元凶が市場原理主義ということには気付かず、その申し子である堀江氏に声援を送っていたのです。
 今回のような事件が起きるとすぐに法の整備となります。仕方ないともいえますが、基本的に私は、六法全書の厚い国は恥かしい国だと考えます。今回の事件の本質は、市場原理主義が経済、社会ばかりでなく、日本人の美しい価値観を傷つけているということです』
 以上のとおり、藤原教授の提起はまったく正しいものであり、この点ではわれわれの主張と完全に一致している。藤原教授は異なった立場から同じ方向を討っているのである。ここに、反権力で統一せよ、という人民戦線思想の本質があり、人民戦線綱領の生きた実践がある。

わが人民戦線は早くからこの問題については詳しく提起してきた。わが人民戦線綱領をひも解いてみよう。

 人民戦線綱領は『二十世紀は現代独占資本と帝国主義の国家に人類を支配し治める能力のないことを証明した。二十一世紀は人民民主主義にもとづく人民の世紀である』という項で次のように提起している。
 『一九九九年夏に発表された国連開発計画(UNDP)の報告によれば、世界で所得の多い上位二〇%の人たちと、所得の少ない下位二〇%の人たちの所得格差は、一九六〇年には三〇対一だったのが、一九九〇年には六〇対一、九七年には七四対一、となった。こうして貧富の格差はますます広がり、これは国際的傾向であるとともに、世界中の各国内の傾向でもある。もちろん、アメリカ国内でも貧富の格差は拡大する一方で、それが人種対立と犯罪大国アメリカを生み出しているのである。
 そのアメリカ独占と帝国主義が世界に展開しているあの「市場原理」、「自由競争」、「規制緩和」という美しいスローガンの実態は何かという事実をイギリスのサッチャーリズム症候群にみることができる。サッチャー以後のこの国はどうなったのか。イギリスの産業はみなアメリカ資本に乗っ取られてしまった。かつて世界に冠たる大英帝国の誇りであった自動車メーカーも、大銀行もみなアメリカ資本に買収されてしまった。イギリスはイギリスでなくなった。国がそうなら人間もそうである。国内の南北の格差はいよいよ深まり、労働組合の力はなくなり、高額所得者と貧困層の格差はますます広がり、アメリカ的な消費社会は急速に拡大し、ドラック市場はサッチャーリズム以降一挙に広まった。古き良き伝統だったスコットランド人気質や、働く職場の労働者たちの連帯はみな解体してしまい、そこには金(カネ)の有無だけがすべてを決定するという、物質万能主義と拝金主義的人間社会が生まれた。すべては金だ、すべては自分だけだ、すべては食うことだ、という動物的本能の人間社会になってしまった。犯罪、人種対立、暴力、テロは急速に広まった。いまや古き良き英国紳士の姿はない。これがサッチヤー症候群の本質であり、サッチャーリズムの結末であった。結局市場原理と自由化とは、巨大独占資本にとってのものであり、一般人民にとっては人間性そう失・弱肉強食の世界であった。そして現代のグローバリズム、国際化、自由化とは、つまりはアメリカ独占資本と帝国主義の世界支配、世界制覇のことなのである』と提起している。ここで示されたイギリスの現実は、日本の問題であり、現代世界の問題なのだ。
 あらゆる客観的事実が示す本質的な問題の根本は、すべては国家と権力のあり方、国家と権力の性格と性質が問われているのであり、ここにすべてがある。つまり、独占資本とその支配権力こそが根本問題である。
 独占資本とは、最大限の利益追求を本能とする階級的集団であり、その結果、彼らの権力とその支配国家は、生産第一主義、物質万能主義、拝金主義、自由競争という名の弱肉強食、その結果としての貧富の格差拡大、人間性そう失、人格否定、物欲主義的人間の増大、自然破壊と災害の激発、という社会になってしまった。犯罪と暴力、事件と事故、対立と抗争、連帯と協力と共同のそう失、混乱と混迷と混沌の世界、これらはすべて国家と権力、独占資本の支配が生み出した歴史上の産物である。あらゆる事件と諸現象はここに根本原因がある。そして歴史はこれを変革せんとして激動しているのである。
 過去の歴史を振りかえってみればわかるとおり、独占と帝国主義の本質は支配と収奪、戦争と殺りく、貧困と抑圧、分裂と抗争、暴力とテロであり、ここに戦争とあらゆる苦難の根源がある。資本主義の到達点、最後のらん熟したこの時代はもう人類史には通用しなくなった。時代は民族に独立を求め、国家に自立を促し、大衆に自覚をあたえ、こうして歴史は新しい自由と平等と真の民主主義的世界を求めて爆発と収れんを展開している。これがあらゆる現象の根元である。地球上最後の帝国主義たるアメリカもまた、過去の帝国主義と同じように戦争を通じて崩壊せんとしている。そして歴史は帝国主義時代を消滅させ、つぎの時代、つまりは、民族は独立し、国家は自立し、人民は自覚し、こうして共同と協力と連帯の世界を一地点、また一地点へと作りあげ、大衆の時代、人民の世界を作りあげるだろう。これが世界史の流れであり、これが現代の歴史時代である。
 日本においても同じことである。独占資本の支配権力たる「政・官・財の癒着構造」と自民党一党支配はもはや古くさくなり、その統治能力はそう失してしまった。歴史は新しい時代としての大衆社会、人民の時代、自由と平等と人権国家と社会を求めて大きなうねりを引き起している。それが政治腐敗と堕落、政治不信、政党の無能、無党派増大、漂流社会、いたるところに発生する犯罪と事故と事件と混乱、混迷、混沌という社会情勢である。こうして歴史はやがて全面的な大転換を求めて爆発し、収れんされていく。その先にあるのは大衆の時代、民衆の世界、人民による人民のための人民の国家と社会である。
 これが現代世界であり、歴史時代であり、時代認識であり、われわれの世界認識である。
 すべてをここからみつめなければならない。

わが人民戦線綱領が示す人類社会の未来とは何か。

 歴史科学はいまやすべての道が人民民主主義にもとづく人民の世界を求めている。二十一世紀は人民と人民戦線の時代である。歴史がそのように求めれば求めるほど、独占と帝国主義はそれに逆らい、自己支配を維持するため新右翼主義、新民族主義、新しいファシズムをめざしていっそう反動化する。故に人民と人民戦線は自己の隊列を整えて闘う以外にない。ここに勝利の道がある。
 この運動と闘いの旗じるしは次のとおりである。
 (一)地球上のすべてにおいて、人類社会において、何よりもまず、人間としての尊厳を確立し、人間性を打ち立て、権利と自由と民主主義にもとづく連帯と協力と共有・共同の社会を実現する。人類の未来は新しい型のコミュニティ社会である。
 (二)そのための大前提こそ国家と権力を人民の手に移すことである。すべては権力(の本質)が決定する。最大限の利潤のみを追求する独占的財閥と帝国主義の権力と国家を破壊し、人民権力と人民政府の樹立。
 (三)すべての闘いと運動の先頭に人民戦線運動の合言葉を高く掲げよ。
 ◎人民戦線とは独占的財閥と帝国主義的支配に反対するすべての勢力の統一戦線であり、「批判の自由、行動の統一、政治活動の自由」という人民民主主義的団結と統一体である。
 ◎人民戦線とは真の人間性、真のヒューマニズム、真の人間愛にみちた集団であり、人民権力、人民政府の母体であり、われわれの国家である。
 ◎生活と権利、自由と民主主義、独立と平和、人間性と人間の尊厳をめざす人民闘争、人民戦線、人民権力万歳。
 以上の三原則である。
 以上の立場から闘いと運動を進めていくうえで決定的な問題、勝敗を決めるカギとなるのは核の存在であり、その権力である。
 組織せよ、組織せよ、そして組織せよ。権力を組織することにこそわれわれの運動と闘いの帰結点、到達点がある。勝利と敗北のカギはここにある。権力は誕生し、成熟し、勝利に達するまで、常に運動し、爆発し、収れんしていく。そして最後は権力が決定する。
 権力の発生と成長はすべて歴史的なものであり、そこには必然と偶然が作用する。現代の歴史的情勢と条件が示す権力に関する科学法則は、独占と帝国主義の国家と権力は、つぎの時代たる人民大衆による人民権力にもとづく人民の世界と国家に転換せざるを得ない。これは必然である。しかしこの必然が完成するためには一定の歴史的条件(偶然)が介在する。これは必然をめざす核と人民戦線の闘いとその運動の力量と歴史の成熟が生み出す。したがって、幹部と先進分子は、必然の道、王道を一貫して歩くこと。この道を一貫して前進すること。この必然性が、必ず偶然と結合して、すべては達成される。それはまた、歴史の必然なのである。

結語

 人民戦線的世界とその人間像はつぎのとおりである。
 ◎国家・社会・生産活動の目的を最大限の利潤追求のためにするのではなく、すべてを人民と人間の豊かさのためにする。
 ◎生産第一主義と物質万能主義ではなく、人間性と人間の尊厳を第一にする。
 ◎金と物がすべてではなく、人間の心と自然の豊かさを第一にする。
 ◎着物や建物の美しさではなく、働く人びとの生きる姿の美しさを第一にする。
 ◎一人だけ自分だけが急いで先に進むのではなく、遅くてもみんなといっしょに力をあわせて進む。
 ◎存在(環境)が人間(の心)を決定する。存在(国家と権力)を人間(人民)のものにせよ。ここに人間性善説が最終的に勝利する。
posted by 日本人民戦線 at 21:48| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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