2006年05月13日

小沢一郎研究

<小沢一郎研究>
壊し屋・小沢一郎によって本当に旧体制は根本的に、全面的に破壊されるのであろうか?その本質と歴史的運命について!

小沢にとっての政治理念の原点「変わらずに生き残るためには変わらねばならない」(映画「山猫」のせりふ)を歴史科学が生み出した思想的メッセージとして受け取らず、単なる政治手法上の知識・手段として理解したこと、ここに小沢政治の限界がある!

 小沢一郎(と民主党)が現在日本の政界で大きな注目をうけ、大きな話題になっている。「壊し屋」小沢が果たして民主党を一人前の政党にし、本当に政権が取れるのだろうか。今までのようにまた壊してしまうのではないか。その信条たる「変わらずに生き残るためには変わらねばならない」の言葉どおり、本当に日本を変え、国家と社会を変え、そして小沢自身が人間的に変わるのであろうか、と、多くの人びとが注目している。
 多くのマスメディアも小沢評をいろいろと評論しているが、われわれはこの問題を単なる小沢の個人的評価や、民主党の人事問題としてのみ扱うのではなく、歴史的時代が生み出した政治問題、思想問題、そして歴史科学の本質的、教訓的問題として(われわれ自身の問題)として考察しなければならない。
 二〇〇六年四月、小沢一郎を代表とする新生民主党が発足した。偽メール事件で前原誠司執行部と民主党は内外からの厳しい批判、非難によって、党は崩壊寸前にさらされた結果、新生民主党は最後の切り札として小沢一郎代表を選んだのである。
 このことで注目すべきことはそのとき、政界(そして民主党内にも)支配していた、いわゆる小沢アレルギー(その豪腕、剛直、壊し屋的性格による拒否反応)を克服して、はたして小沢代表が実現するだろうか、という疑問であった。にもかかわず、民主党は圧倒的多数で小沢を代表に選んだ。このことに注目すべき本質的問題がある。つまり、小沢個人に対する個人的感情や、好きとか嫌いとかいう私情や、損とか得とかいう利害を超越した何かがここで動いたのである。この何かとはいったい何か。これが歴史であり、歴史時代であり、時代の流れである。すべては歴史科学の産物なのである。
 現代の歴史時代とは何か。現代の時代とは何か。人びとを突き動かしている時代の流れとは何かということである。それは世界的には帝国主義と独占支配の時代はもう終わりに来ており、らん熟したこの制度は時代遅れになってしまった。人類史の歴史が証明しているとおり、爆発と収れんを通じて(戦争と内乱を通じて)、旧制度はつぎつぎに崩壊していった。こうして歴史上最後の独占と帝国主義のアメリカが、イラク戦争を通じて崩壊しつつある。歴史を動かすその力こそ、民族は独立を求め、国家は自立をめざし、大衆(人民大衆)は自覚し、目覚めて自己を主張していく。この歴史の運動と戦いが時の流れである。
 日本においても同じ歴史の流れが渦巻いている。小泉改革は急速な格差社会を作り出した。拝金主義と人間道徳喪失によって社会は崩壊していく(藤原正彦教授の『国家の品格』は一七〇万部突破のベストセラーとなったのを見よ)。「政・官・財の癒着」による自民党支配、腐敗と堕落への怒りは底辺に充満して、いつかは爆発せんとしている。国際的にも、国内的にも、歴史は旧体制内での改革(改良と修正)ではなく、国家と社会の全面的で、根本的な変革(革命的転換)を求めており、そのような党とリーダーを求めて、人びとを突き動かしている。
 こうした歴史のうねり、動向、流れ、つまり現代史と歴史時代が、小沢一郎の強さ、豪腕、剛直、壊し屋を求めたのであり「帝国主義と独占的収奪支配の恐怖」に対抗する「小沢一郎の恐怖」を大衆と民主党はその手にしたのである。
 人類の歴史と政治と社会は常に変化と発展をめざして動き、運動していく。世界も、日本も、すべてはこうして到達すべきところに向って到達していく。その過程はまさに偶然を爆発させ、これを収れんさせてそうなる。小沢民主党の発足はこのような歴史過程の産物であり、ここに本質があり、ここに歴史の流れがあり、これが小沢民主党出現の時代認識である。
 そして問題は「変わらなければ生き残れない」という小沢哲学が果たして生き残れるのであろうか、ということであり、それはすべては歴史科学(哲学科学的原理)が答えるであろう。

小沢一郎とは何者か?小沢アレルギーとは何か?小沢は映画「山猫」が発したメッセージをどう受け止めたのか?その歴史上の運命と価値について!

 小沢一郎には一貫してそのアレルギーが付きまとう。その人物評がそうさせているのである。豪腕、剛直、ぶっ壊し屋、破壊者、傲慢、恐怖、嫌悪、悪る、である。それは小沢の政歴を見ればわかる。一九八九年に歴史上最年少(四七才)で政権与党自民党の幹事長に就任。一九九一年、海部内閣総辞職後の次期総理大臣を選ぶ際、小沢は宮沢喜一、渡辺美智雄、三塚博の三人の候補者を自分の個人事務所に呼びつけて面接試験≠実施、このことでその傲慢不遜が定着した。以後、一九九二年の「改革フォーラム21」の結成と自民党・経世会(竹下派)からの脱退。九三年の新生党結成。この年に八党派を束ねて反自民の細川政権を樹立。九五年には新進党結成。九八年には自由党結成。九九年には自・自・公連立政権樹立。二〇〇三年に民主党と合併。そして二〇〇六年新生民主党の代表へ。このとおりその歩いた道をたどればわかるように、壊しては作り、作っては壊していった。その間に、共に闘った同志は去り、友人は別れ、古い仲間は憎しみを抱きながら離れていった。だが小沢は「おれの考えが理解できないなら仕方がない」と平然としていた。そこには一つの信念があり、小沢哲学があった。それは、このままでは日本は駄目になる、日本は生まれ変わらねばならない。そのためには自民党が生まれ変わらねばならず、政党も、政治家も、自分自身も変わらねばならない。そのために自民党を壊し、政界を再編成し、新しい党、変わった党を作るのだ。破壊せよ、というこの意味がわからないのか!というのである。ここに小沢哲学があり、これが小沢の政治信条である。
 ところで小沢一郎のこの信条、固き信念、その哲学はどこから生まれたのであろうか。何から学びとったものなのか。このことについては彼自身がたびたび語り、昔から語り、新聞、雑誌にも取り上げられているが、それは映画「山猫」のなかに出てくるせりふ「変わらずに生き残るためには変わらねばならない」というこの言葉であった。この映画は一九世紀のイタリア統一国家樹立、立憲君主制(ブルジョア自由主義国家)成立をめざす、当時イタリアの先進的政党「青年イタリア」とその英雄・ガリバルディの戦いを記録したベストセラー小説(一九五八年発刊)を映画化した(一九六三年)ヒット作品である。
 当時イタリアは、内的には中小王国が乱立した対立と抗争と分裂の国であり、外的には大国オーストリアとフランスの干渉と支配下にあった。そうした時代に、新興ブルジョア階級は、民族的自覚と、ブルジョア自由主義思想に目覚め、先進分子は「青年イタリア」に結集して、民族独立と国家の統一、そのための新しい国家と権力としての立憲君主制をめざし戦ったのである。こうして一八六一年に統一イタリアが実現した。この歴史過程のなかで、旧体制(封建制下の貴族社会)が崩壊するとき一貴族が「青年イタリア」とその革命運動に身を投じた際に語った「変わらずに生き残るためには変わらねばならない」というのがこの一言である。小沢は言っている。日本は変わらねばならない。変わるためには自民党が変り、政党も変り、そして自分自身も変らねばならない。そのために古いものを壊し、新しいものを作り出すのだ、という信条をこの「山猫」から学んだのである。
 ここでわれわれは提起しておきたいことがある。それは小沢が「山猫」から学びとったといわれる「変わらないために変わらねばならない」というこの言葉をどう理解し、受けとめるのか、ということである。結論から言えば、小沢はこの言葉を、哲学・科学的歴史観からではなく、単なる言葉として、文章として、知識として理解し受けとめた、ということである。その結果として小沢にとってはこの言葉は、彼の個人的感覚と感情、目前の成功のための手段と方法と道具になってしまったのである。これでは歴史が生み出した価値あるこの言葉は生かされないであろう。「青年イタリア」の党と、旧体制から脱出して新しい世界を作り出す革命運動に身を投じた旧貴族の変った生き方は、小沢とは違うのである。「自分が人間として生き残るためには、旧体制を破壊し、新しい体制に変える以外にはなく、そのために自分自身の生き方を変えねばならない」という思想を表現したのがイタリア貴族の言葉であった。こういう人間は歴史の転換期には必ず出現するもので、日本では岩倉具視が有名である。徳川幕府の崩壊と明治維新によって日本は封建制からブルジョア自由主義的近代資本主義へ転換していったが、旧体制下の公家で貴族の一員であった岩倉は、旧体制から脱出して明治維新の革命闘争に参加し、その先頭に立った。その結果として、岩倉は旧体制と共に崩壊することなく、「変った新しい時代のなかで、人間として変らずに生き残ったのである。まさに「変わらずに生き残るためには変わらねばならない」のであった。故にわれわれは、言葉を言葉として、知識としてつかむのではなく、それを生み出した歴史と時代、そしてその人物と人間の生き方、その生涯から、その思想性と政治性を認識するということ、これが哲学科学思想であり、歴史科学の認識論なのである。
 もしも小沢にこの「山猫」の言葉が、知識として、単なる言葉としてではなく、哲学科学的世界観としてつかめたなら、旧体制を補完するような、単なる改革(改良、修正)ではなく、明治維新のように、国家と社会の根本的変革(革命的転換)に向って闘う現代の岩倉具視になり得たはずである。
 しかしこの前文(序論)で明らかにしたとおり、小沢アレルギーを乗り越えて小沢民主党が実現したその歴史性からみたとき、小沢の出現は日本政治史においては価値あるものであり、歴史の進歩であり、破壊と建設の時代的象徴としての意義がある。歴史はこのような偶然性を通じて必然性をめざして進む。このような歴史科学からみて、小沢とその民主党の結果がどうあれ、それは貴重な多くの経験と教訓を残すであろう。
 そして歴史はこれからも、第二、第三の小沢的(あるいは非小沢的)人物と党を作り出しつつ「さあどうするのか、はっきりせよ」と迫るであろう。「ここがロドス島だ、ここで跳べ! ここにバラがある、ここで踊れ!」(マルクス)という風に。つまり、歴史は一貫して真理に向って前進せよと呼びかける。そして歴史は最終的に時代の要求に答えられる真の前衛を作り出し、歴史を必然の世界に到達させるであろう。

現代日本の(世界的にも)歴史時代が求めているのは単なる改革(改良や修正)ではなく、国家と社会の根本的変革(大衆社会、人民の時代)への転換である。先進的で前衛的人びとは現代史に目覚めよ!

 哲学科学的世界観、歴史科学と現代の歴史時代認識から判断するとき、小沢的発想と方法論、その手法は最終的には成功しないであろう。小沢は言う。「小泉改革はでたらめだ。日本に格差社会を作りあげてしまった。一部の勝ち組だけが得をするのは本当の自由ではない。民主党がめざすべき社会は黙々と働く人、努力する人が報われる公正な社会、共存と共生の社会だ」と。これは正しい。そのとおりである。だが問題は、そのためにどうするのか、ということなのである。これについて小沢は言う。政権交代だ、二大政党制だ、官僚支配の打倒だ、民主党政権の成立だ、と。われわれが言うのはこの小沢的手法が、旧体制内での改良であり、修正であり、小手先であり、結果として旧体制の補完なのだということである。小沢哲学の源泉となった映画「山猫」の歴史は果たして小沢的改良だったのであろうか。否!改良ではなく、革命、根本的な変革であった。岩倉具視の明治維新も革命であった。「青年イタリア」も、日本の明治維新も、旧体制内の改良と修正ではなく、国家と社会の全面的な変革(革命)であった。二大政党制や、政権交代制は、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、で見るとおり、それは結局、政権のたらい回しとなり、何の変革も実現されず、みな行き詰っているではないか。なぜなのか。ここでもわれわれは現代の歴史時代を哲学・科学的にとらえねばならない。
 すべては哲学原理たる「存在が意識を決定していく」のである。つまり、あらゆる問題の根本は、存在としての、現在の国家と権力のあり方にこそ原因がある、ということである。現在の国家と権力は、帝国主義的・独占資本の権力である。独占資本の本質は生産第一主義、利益第一主義、物質万能主義、拝金主義、自由競争という名の弱肉強食主義である。その結果として、この社会は金(かね)がすべてとなり、ホリエモンも、法律無視・人命無視の建築物耐震偽装事件も、いっさいはこのような独占資本主義というこの体質が生み出したのである。小沢が非難する小泉改革や、格差社会の出現や、日本社会の混迷・混乱・不安や不安定は、帝国主義的支配権力、独占資本の支配、国家と権力の本質としての拝金主義と物質万能主義が生み出しているのであって、二大政党制とか、政権交代とか、そういう改良や修正で解決する性質のものではない。
 独占資本と帝国主義はその階級的本能、本質として、常に最大の利益、収益、拝金主義的活動を展開していく。市場原理とか、自由競争とか、公開制度とか、国際化とかいうのは、そのための手段であって、すべては弱肉強食のための方法論である。多くの経済学者が認めているとおり、サッチャーとレーガンの世界が証明しているのである。ブッシュのイラク戦争を見ればわかるとおり、常に独占と帝国主義は口実を求めては戦争によって世界支配を実現していく。帝国主義戦争の歴史が証明しているではないか。このような独占と帝国主義の世界が格差社会、貧富の差別社会を作り出しているのである。すべては国家と権力の本質が生み出しているのである。
 小沢が主張する、格差社会の是正、平等と共生の社会というものは、独占支配と帝国主義支配を破壊しないかぎり、つまり国家と権力の全面的な転換なしには絶対に実現できるものではない。小沢の言う「破壊せよ」というのは、独占資本と帝国主義を破壊せよ、という風にならなければ目的は実現できないのである。
 そして現代の歴史時代はそのような方向に向って動いているではないか。現代の世界各地で発生している戦争と内乱、暴力とテロ、各種の犯罪と事件はみな、独占支配と帝国主義の収奪に反対する歴史の蜂起である。独占と帝国主義支配はもう古くなって現代史には通用しなくなった。大自然(土地も、山も、海も)はすべて人類社会のもの、大衆のもの、人民のものである。そこからの生産物もまた万人のもの、社会のものである。それを独占と帝国主義が私利、私欲のため、拝金主義のために使うというのはもう歴史的に許されない。民族は目覚め、国家は自立し、大衆は自覚していった。こうして全世界に反乱が起こっている。
 日本においてもいたるところに反乱が起こっている。政治不信、政党不信、無党派層の増大、投票率の低下、各種の事件や事故や犯罪の発生、青少年の犯罪、社会の分裂、などはみな歴史の反乱である。こうして歴史は爆発し、収れんしていく。歴史は新しい時代を求めている。小沢の出現はこうした歴史の反乱の一部であり、その偶然性である。先進分子、前衛は、この歴史時代認識をしっかりと確認しようではないか。

現代の歴史時代が要求し、その要求に答えて闘う先進的人びと、前衛分子が確固として堅持し、実践すべき政策と方針(マニフェスト)は何か!

 宇宙と人類世界は一貫して運動しており、変化しており、発展し、前進しており、常に新しい時代に向って爆発し、収れんしていく。そして必ず到達すべきところに到達する。人類の歴史が科学として証明しているとおりである。人類社会の原初は原始社会であり、つぎは奴隷制社会、つぎは封建制社会、そして資本主義は独占資本と帝国主義の時代へと登り詰めた。そしてつぎの社会、より高度に発展した大衆社会、人民の社会、近代コミュニティ社会をめざして、あらゆる所で爆発と収れんを重ねている。歴史の転換は静かに、平穏に実現されるものではない。必ずそれは激動を伴うものである。この激動を恐れることなく、つぎへの飛躍として正面から受け止めて立ち向かっていくことこそ、先進的人びと、前衛分子の責任と任務と役割である。
 歴史が要求し、歴史が求めている新しい時代への転換期に、先進的、前衛的人びとが確固として堅持し、実践すべき政策と方針とは何か。それはつぎのとおりである。
 (一)独占資本主義と帝国主義の時代はもう古くなり、もう時代遅れになってしまった。戦争と内乱、暴力とテロ、あらゆる犯罪はこのような古い体制の矛盾の産物であり、それ自身が国家と社会の転換を求める怒りの爆発なのである。
 日本においては「政・官・財の癒着構造」を破壊して、人民による人民のための人民の政治を実現すること、ここに歴史時代があり、歴史の要求があり、歴史の進歩を促進させる新しい時代がある。
 (二)そのための運動と闘いこそ、過去の歴史上の転換期が教えているとおり、それは新しい時代を背負う階級、新興階級、現代では人民大衆が推し進める人民運動、人民闘争、人民戦線運動である。
 独占資本と帝国主義に反対するすべての人民が、それぞれの立場から、反独占・反帝国主義の旗のもとに団結し、統一した闘いと運動を進めなければならない。そのための旗じるしこそ「人民戦線綱領!」である。この旗のもとで闘う人民戦線運動は歴史の要求であり、歴史の必然である。いくらかの曲折があったとしてもこの道は必然であり、ここに歴史の王道がある。
 (三)新しい国家と社会、政治とその権力の母体は人民戦線であり、その執行機関は人民評議会である。人民大衆はそれぞれの所属する層ごとに結集し、団結し、統一し、組織をつくり、そこで共同と協力と共通の意思を確認し、政策と方針を確立する。各界、各層の共同の意思は、人民戦線運動と評議会に結集され、まとめられ、これを評議会として執行する。これが本当の民主主義であり、自覚され、意識された真の民主主義である。
 投票によって政治家や指導者や政策を選ぶというやり方は、古代ギリシャの陶片追放制度からはじまったが、最初からそれは愚民政治の手本として権力支配に利用されてきた。歴史上の事実が証明しているとおり、第一次、第二次世界大戦も、日本軍国主義のすべての戦争もみな投票による議会によって承認されたのである。歴史上最高の得票を獲得したのは、世界的にはヒトラーであり、国内的には田中角栄であった。
 ヒトラーがファシズム支配体制を完了させ、第二次世界大戦を引き起こしたあの全権委任法を採択した一九三三年十一月の総選挙は、実に九六%の投票率と九二・二%の得票率という世界史上最高のものであった。日本の総選挙史上最高の得票を得たのは一九八三年十二月総選挙で田中角栄が得た二二万票、四六・五%という史上最高のものであった。しかもそれは歴史上はじめての現職総理大臣の疑獄事件(ロッキード事件)で有罪判決を受けた直後の、いわゆるロッキード総選挙で、国内世論の八〇%は田中退陣を求めるという正論のなかでの出来事であった。こういう歴史科学の証明が示すとおり、投票というのはまさに愚民政治の見本なのである。ブッシュのイラク戦争もまた、アメリカ大統領選挙における投票で多数派支持という愚民政治の産物であった。
 事実が証明しているとおり、投票制とは大衆の幻想と錯覚と無政府的・個人的感情を支えにしているのであって、真の人間性に根ざしたものではない。したがってこの制度は権力のもつ「非情」さを隠す「情け」であり、つい立であり、飾り物であり、鎧(よろい)を隠す衣(ころも)である。
 とくに注意すべきことは、投票という行動、この自由主義的個人行動について、そのとき個々の人間を投票行動に駆り立てる契機とは何か、ということを知らねばならない。それは個人が個人としての自由行動であるから、そこには社会の中の個人ではなく、社会から隔離された、まったくの個人的事情がその契機となる。あるときは気の向くままであり、あるときは個人的感情や気分であり、現代社会で一般的なものは金(かね)であり、付和雷同である。したがってそこには政治的自覚も、思想認識も、人間性も、崇高な理念も、したがって社会的正義もない。ここに投票制のもつ愚民性がある。
 わが人民戦線と人民政策、そして人民政府と人民権力は、真の民主主義、自覚された民主主義、社会的民主主義としての評議会に断固として依拠するであろう。

結び

 ▽ 人民による人民のための人民の世界とは何か。それは国家、社会、生産活動の運営目的を、最大限の利益と利潤追求のみに注ぐのではなく、すべてを人民の生活と文化水準と社会環境の安心・安全・安定のために注ぐ!
 ▽ 生産第一主義、物質万能主義、拝金主義、弱肉強食の国家と社会ではなく、人間性の豊かさと人間の尊厳と人間としての連帯と共生の国家と社会にする!
 ▽ 金と物がすべてではなく、人間の心と自然の豊かさが第一であり、姿や形だけの美しさではなく、働く人びとの生きる姿と心の美しさが第一であり、一人だけで急いで先に進むのではなく、遅くてもみんなが一緒に進む!
 ▽ 人間は生まれたときから環境の産物であった。環境が変われば人間も変わる。国家と権力が変われば国民は変わる!
 ▽ 人類が最初に、はじめてつくった社会は、原始的ではあったが、そこにはまさに共同と共生と連帯の人間的社会があった。そしていくたの回り道をしたが、その間により大きくなってもとに帰る。つまりより高度に発達した近代的コミュニティ国家と社会へ。ここから本当の人民の社会、人間の社会が生まれ、人類は総力をあげて大宇宙との闘い、新しい闘い、宇宙の開発と開拓の闘いに進軍するだろう!
                                  (おわり)
posted by 日本人民戦線 at 19:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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