2007年4月の統一地方選の結果は、現代日本の政治状況と歴史時代を正しく反映した!
現代の歴史時代とは何か。それは漂流する時代、動揺する時代、混迷する時代、政党の無能力化時代、そういう中で大衆は根本的転換を求めてその進路を探し求めている!
四月統一地方選の結果は、表題の通り、漂流する時代、動揺する時代、混迷する時代、政党の無能力化時代という現代世界の時代認識をよく現したものであった。すべては「存在が意識を決定する」のである。
現代世界とは何か。生産力の発展が生産関係(国家と権力と社会の構造)を変化させ、発展させるという科学法則にもとづいて、人類社会は資本主義の最高の段階としての独占と帝国主義の時代に到達した。そして今、民衆社会、コミュニティー社会へと転換せんとする爆発と収れんが世界を襲っているのである。それがイラク戦争であり、アメリカ帝国主義が「帝国主義戦争を通じて崩壊せん」としている時代である。アメリカの「一極体制」の崩壊、世界の多極化と「戦国時代」の到来は歴史の進歩と発展であり、その混迷と動乱、群雄割拠は民族は独立し、国家は自立し、人民は自覚し、新時代を切り開く前夜である。
日本においても同じことである。独占資本の支配権力たる「政・官・財の癒着構造」と自民党一党支配はもはや古くさくなり、その統治能力はそう失してしまった。歴史は新しい時代としての大衆社会、人民の時代、自由と平等と人権国家と社会を求めて大きなうねりを引き起している。それが政治腐敗と堕落、政治不信、政党の無能、無党派増大、漂流社会、いたるところに発生する犯罪と事故と事件と混乱、混迷、混沌という社会情勢である。こうして歴史はやがて全面的な大転換を求めて爆発し、収れんされていく。その先にあるのは大衆の時代、民衆の世界、人民による人民のための人民の国家と社会である。
安倍政権の唱える憲法の改定や国民投票法案の強行採決、教育の再生やその「美しい国」は民族主義政権の指向であり、それは戦前への回帰であり、歴史の逆行であり、行き詰ったが故のあがきであり、強がりであり、絶対に勝利しない。現実にアメリカの一極主義の敗北、北朝鮮問題や六ヶ国協議の進展、拉致問題の孤立と混迷は何よりの証明である。
以上の歴史時代が、日本の統一地方選にそのまま現れたということである。人民大衆は社会の根本的な転換を求めている。時代遅れとなった自民党政治や保守政治に取って代わって、新しい時代にふさわしい人民の政党や集団、力と実力のあるリーダーの出現が待望されている。歴史は新しい時代を求めて爆発し収れんに向かいつつある。ここに今日の時代認識があり、ここに統一地方選の結論がある。
(一)統一地方選の結果を見よ。政党不在、政党の無力化、無党派層の漂流、投票率の低下、さまざまな動揺と混乱、これが本質的な選挙結果である。
四月八日、統一地方選の前半戦の翌日、日本の新聞はこぞって、次のような見出しをつけ、同じような主張をした。「争点見えず、現職知事全勝」「勝利した政党は無し」「見過ごせぬ政党力の衰え」「無党派層が勝敗を左右」「自民党足腰弱まる」「民主、力及ばず」と書き、「勝ったと胸の張れる政党は無い」「漂流する無党派層」「政党の気迫が足りない」「投票率最低」と主張したのである。まったく新聞見出しが言うとおり、選挙結果は混迷、混沌、無党派層の漂流、政党の無力化であった。
新聞各紙の世論調査でもわかるとおり、六割から七割の人民大衆は変化を望んでいたが、多くの有権者は投票では現職に投票した。典型的なものは東京都知事選挙であった。戦前は必ずしも「石原安泰」ではなかった。前宮城県知事の浅野氏が立候補したのは「勝手連」や無党派層の動向に勝機を見出したからであった。しかし結果は百万票を超える差で「石原圧勝」であった。石原陣営は「反省せよ、慎太郎、それでも慎太郎」を合言葉に、五輪の招致、若者への夢を語った。多くの人々は石原の力強さ、夢や幻想に錯覚した。変化を求めていた無党派層はその力の前にばらばらになったのである。
サンデー毎日の日下部聡記者は毎日新聞四月十一日付の「記者の目」で、「無党派層に問う」との見出しで、大衆心理を次のように取材している。『「あれだけ大きいことできる人だもの。私らとは違うんだから。高い店で飲んだり、高級ホテルに泊まったりもするでしょう」=元会社員の男性(65)
「いろいろ批判はあるけど、迫力があって引っ張ってくれそうな感じがする」=主婦(37)
石原氏のオーラは、最も強い逆風だった「都政私物化」批判さえ吹き飛ばしてしまったのだ。』
「国とケンカもする」と豪語する石原氏、その「力強さ」に無党派層は引っ張られたのである。浅野候補が敗北宣言で「これほどの差がつくとは」と愕然としたが、これは投票行動についての大衆心理が左右したのである。選挙とは、こういうものである。なかでも象徴的であったのは、例の「ばばぁは役に立たない」といういわゆる「ばばぁ発言」である。これも同じことであった。大衆は「力のある人は口がすべるものだ。私らは気にしない」と言ったが、これが投票行動における大衆の個人感情の最たるものである。
「政党力の衰え」「政党の漂流化」と多くの新聞は書いたが、今度の統一地方選ほど政党の無能化をさらけ出したものはない。政党が「政治や国民を導く」のではなく、無党派層といわれる漂流した大衆に翻弄され、政党の漂流も続く。今やすべてが漂流している。これは日本だけでなく世界がそうであり、自民党であれ、民主党であれ、保守政党である限り、古くさくなり、歴史のお荷物となっている。民主党がいまひとつはっきりしないのは本質が時代遅れになっているからである。朝日新聞が四月十日付の社説で「政党に気迫が足りない」と書いたが、そういう性格や種類の問題ではない。歴史が転換しない限り、漂流はいつまでも続く。時代が新しい政党の出現を待望している。
あと一つは、民族主義的指向である。日本の安倍政権も「美しい国」などという民族主義を標榜しているが、アメリカの一極主義の崩壊がもたらす世界の民族主義的傾向と時代が石原を圧勝に導いたのである。石原は自他共に認める「反米民族主義者」である。安倍政権の民族主義と相通ずるもの、これが歴史過程の中で一時的に結びついたのである。しかしこの民族主義は国家と政権の危機の反映であり、見栄と強がりの表現であり、あせりの現れであり、歴史的には一時的なあだ花に過ぎない。
結論を繰り返せば、日本の人民は、動揺と混乱、漂流と混沌、政党が無能化するなかで、大衆は自らの進路を探し求めている、ということであり、真の人民の政党と人民のリーダーが求められている、ということである。統一地方選はこのことをわれわれに迫っている。
(二)歴史が求めている変革とは何か。それは自民党政権や国家と権力の単なる改革や修正ではなく、国家と権力、社会の根本的転換であり、その道は人民戦線運動と人民権力以外にない。
人民が待望しているものは単なる政権交代や、政権のたらいまわしではない。今、小沢一郎の民主党が盛んに政権交代を主張しているがそうではないのだ。これなら二大政党制のイギリスやアメリカなどの欧米先進国が昔から湯気抜き政策としてやってきたことである。少しやり方やイメージが違っても独占資本の権力を守るという意味で同じことである。日本でも形は違うが派閥間で擬似政権交代がやられてきた。あるいはまた地方自治体の首長をとって、中央政府を包囲するというやり方でもない。これなら六〇年代から七〇年代にかけて横浜市の飛鳥田市長、神奈川の長洲知事、大阪府の黒田知事、東京都の美濃部知事ら大都市部を中心に「革新首長」を実現させたが、結局は何も解決せず、借金と赤字だけを残して敗北した。われわれは二度とこういうことをしてはならない。
われわれが目指しているものは、「政権交代」でも「革新首長」でもない。首のすげかえや構造改革などの単なる「改革」や「修正」でもない。それは国家と権力、社会の根本的変革、革命的な転換なのである。つまり国家や権力の手直しではなく、独占支配を破壊して、人民が政権を握り、民衆と大衆社会に権力と社会の仕組みを変える、革命的転換なのである。すべては「存在が意識を決定する」のである。
あらゆる問題の根本は、存在としての、現在の国家と権力のあり方にこそ原因がある、ということである。現在の国家と権力は、帝国主義的・独占資本の権力である。独占資本の本質は生産第一主義、利益第一主義、物質万能主義、拝金主義、自由競争という名の弱肉強食主義である。その結果として、この社会は金(かね)がすべてであり、すべての尺度は金であり、人間の心を「金の亡者」にしてしまったのである。社会に衝撃を与えているプロ、アマを問わず野球界を金が支配してしまった問題も、こういう社会構造にすべての原因がある。「倫理行動宣言」を何回出しても直らない。「産経抄」(四月十三日付)が嘆いているが、「野球選手の卵には札束が積まれるが、金にならない科学者の卵には冷たい」と書いたが、国の形、社会の構造がそうなのである。格差社会の出現や、日本社会の混迷・混乱・不安や不安定は、帝国主義的支配権力、独占資本の支配、国家と権力の本質としての拝金主義と物質万能主義が生み出しているのであって、二大政党制とか、政権交代とか、首長の交代とか、そういう改良や修正で解決する性質のものではない。
独占資本と帝国主義はその階級的本能、本質として、常に最大の利益、収益、拝金主義的活動を展開していく。市場原理とか、自由競争とか、公開制度とか、国際化とかいうのは、そのための手段であって、すべては弱肉強食のための方法論である。格差社会の是正、平等と共生の社会というものは、独占支配と帝国主義支配を破壊しないかぎり、つまり国家と権力の全面的な転換なしには絶対に実現できるものではない。現代の世界各地で発生している戦争と内乱、暴力とテロ、各種の犯罪と事件はみな、独占支配と帝国主義の収奪に反対する歴史の蜂起である。
独占と帝国主義支配はもう古くなって現代史には通用しなくなった。大自然(土地も、山も、海も)はすべて人類社会のもの、大衆のもの、人民のものである。そこからの生産物もまた万人のもの、社会のものである。それを独占と帝国主義が私利、私欲のため、拝金主義のために使うというのはもう歴史的に許されない。民族は目覚め、国家は自立し、大衆は自覚していった。こうして全世界に反乱が起こっている。
日本においてもいたるところに反乱が起こっている。政治不信、政党不信、無党派層の増大、投票率の低下、各種の事件や事故や犯罪の発生、青少年の犯罪、社会の分裂、などはみな歴史の反乱である。こうして歴史は爆発し、収れんしていく。歴史は新しい時代を求めている。歴史は科学法則にもとづいて動いており、必然と偶然を通じて根本的転換に到達せざるを得ない。歴史的情勢や革命的情勢は必ずやって来る。問題はそれを受け止める能力があるか無いか、この主体的力量が決定的である。われわれ先進分子、前衛は、この歴史時代認識をしっかりと確認しようではないか。
(三)すべての根本は国家権力の問題であり、国家と権力を根本的に転換する以外にない。この実現は投票では不可能であり、闘いと運動であり、人民大衆の力である。
闘いにもいろいろある。空想的な運動、観念的な運動、自己満足的な運動、ただ人を集めて溜飲を下げ、満足を満たすだけの運動、いろいろあるが、われわれの運動と闘いは歴史が科学として提起した真に正しいものでなければならない。仮に、少しばかりの回り道があったとしても確実に勝利を積み上げ、最後には権力を取って勝つものでなければならない。それに反したならいかに人を動員しても、大騒ぎしても、結局は徒労に終るのである。一九五〇年、五億人の署名を集めたストックホルム・アピール、一九五五年、核戦争反対で七億人の署名を集めたウィーン・アピールが、その後どうなったか、あるいはまた、あれほどの人を動員し、国会を包囲した六〇年安保闘争は、五〇年近くがたった今も安保条約は存在し、アメリカの世界支配に使われてきたのである。歴史の教訓に学ばねばならない。
新しい時代に合致した真に正しい価値ある闘いとは何か、それはつぎの三項目と心得である。
(一)独占資本主義と帝国主義の時代はもう古くなり、もう時代遅れになってしまった。戦争と内乱、暴力とテロ、あらゆる犯罪はこのような古い体制の矛盾の産物であり、それ自身が国家と社会の転換を求める怒りの爆発なのである。
日本においては「政・官・財の癒着構造」を破壊して、人民による人民のための人民の政治を実現すること、ここに歴史時代があり、歴史の要求があり、歴史の進歩を促進させる新しい時代がある。
(二)そのための運動と闘いこそ、過去の歴史上の転換期が教えているとおり、それは新しい時代を背負う階級、新興階級、現代では人民大衆が推し進める人民運動、人民闘争、人民戦線運動である。
独占資本と帝国主義に反対するすべての人民が、それぞれの立場から、反独占・反帝国主義の旗のもとに団結し、統一した闘いと運動を進めなければならない。そのための旗じるしこそ「人民戦線綱領!」である。この旗のもとで闘う人民戦線運動は歴史の要求であり、歴史の必然である。いくらかの曲折があったとしてもこの道は必然であり、ここに歴史の王道がある。
(三)新しい国家と社会、政治とその権力の母体は人民戦線であり、その執行機関は人民評議会である。人民大衆はそれぞれの所属する層ごとに結集し、団結し、統一し、組織をつくり、そこで共同と協力と共通の意思を確認し、政策と方針を確立する。各界、各層の共同の意思は、人民戦線運動と評議会に結集され、まとめられ、これを評議会として執行する。これが本当の民主主義であり、自覚され、意識された真の民主主義である。
以上。
これが内外の歴史上の経験をまとめて意識化された科学的な政策と方針である。特にここで改めて明らかにしておきたいのは、すべての根本問題は国家と権力の問題である、ということである。国家権力を誰が握るのか、という問題は闘いの根本問題である。如何に大集会を開こうが、如何に多数派を形成しようが、如何に派手にデモをしようが、権力の奪取と権力問題が明確になっていない限り、それは結局は歴史のあだ花≠ゥ徒労≠ノ終るのである。すべての闘いを通して権力問題を明確にせよ、そのとき、すべての闘いは価値あるものに転化するであろう。日本人民の歴史、特に六〇年安保闘争の教訓は絶対に忘れてはならない。すべては権力の争奪戦である。すべてを人民戦線へ、これがわれわれの結論である。
また、このたびの統一地方選でも証明しているとおり、投票制とは大衆の幻想と錯覚と無政府的・個人的感情を支えにしているのであって、真の人間性に根ざしたものではない。したがってこの制度は権力のもつ「非情」さを隠す「情け」であり、つい立であり、飾り物であり、鎧(よろい)を隠す衣(ころも)である。
とくに注意すべきことは、投票という行動、この自由主義的個人行動について、そのとき個々の人間を投票行動に駆り立てる契機とは何か、ということを知らねばならない。東京都知事選挙における石原圧勝をみればよくわかる。それは個人が個人としての自由行動であるから、そこには社会の中の個人ではなく、社会から隔離された、まったくの個人的事情がその契機となる。あるときは気の向くままであり、あるときは個人的感情や気分であり、現代社会で一般的なものは金(かね)であり、付和雷同である。したがってそこには政治的自覚も、思想認識も、人間性も、崇高な理念も、したがって社会的正義もない。ここに投票制のもつ愚民性がある。
わが人民戦線と人民政策、そして人民政府と人民権力は、真の民主主義、自覚された民主主義、社会的民主主義としての評議会に断固として依拠するであろう。
結び
◎ 人民による人民のための人民の世界とは何か。それは国家、社会、生産活動の運営目的を、最大限の利益と利潤追求のみに注ぐのではなく、すべてを人民の生活と文化水準と社会環境の安心・安全・安定のために注ぐ!
◎ 生産第一主義、物質万能主義、拝金主義、弱肉強食の国家と社会ではなく、人間性の豊かさと人間の尊厳と人間としての連帯と共生の国家と社会にする!
◎ 金と物がすべてではなく、人間の心と自然の豊かさが第一であり、姿や形だけの美しさではなく、働く人びとの生きる姿と心の美しさが第一であり、一人だけで急いで先に進むのではなく、遅くてもみんなが一緒に進む!
◎ 人間は生まれたときから環境の産物であった。環境が変われば人間も変わる。国家と権力が変われば国民は変わる!
◎ 人類が最初に、はじめてつくった社会は、原始的ではあったが、そこにはまさに共同と共生と連帯の人間的社会があった。そしていくたの回り道をしたが、その間により大きくなってもとに帰る。つまりより高度に発達した近代的コミュニティ国家と社会へ。ここから本当の人民の社会、人間の社会が生まれ、人類は総力をあげて大宇宙との闘い、新しい闘い、宇宙の開発と開拓の闘いに進軍するだろう!
◎人類の歴史は独占資本と帝国主義の時代から、大衆社会、人民の世界、新しいコミュニティー社会を目指して転換しようとしている。人類の希望に向かって立ち上がり、連帯し、行動しよう!